寝床のオートマチスム

 小学校の同窓会に出席するため実家にいる。私の初恋の相手も来るらしいとのことで、そわそわする。集合は昼の11時。起きて時計を見ると9時半で慌てる。Yが探してきたという雑誌がテーブルの上にある。復刊したというティーン向けファッション誌で、なぜか表紙がその初恋の相手。分厚い絨毯の敷かれた豪壮なオフィスで、ふちなし眼鏡に地味なスーツ、大きな革張りのソファーに寄りかかって立っている。表紙上部の背景が暗く沈んでいるところに、青いローマ字で"asayan"と書いてある。何号のところが$マーク。
 表紙扱いなのに彼女に関する記事は目立たないモノクロ1ページのみで、仕事の業績(なんか固い仕事っぽい)やら「海外の権威のある業界誌に取り上げられて嬉しかった」みたいな談話が紹介されている。それから、顔がモザイク処理された夫か恋人らしき人物と手をつなぎ、時代がかった花柄のニットを着て映っている写真。時間がないのでざっと目をとおして続きは後にする。
 階段をおりていくと、Yがビニールのソフトボールを投げてよこし家の外を指さす。玄関から外をのぞく。門の外で色とりどりの作業着を着た中年〜初老の男が4人、笑いながらうろうろしている。遊んでいて家に入ってしまったボールを取りに行くふりで斥候するという手口の空き巣らしい。玄関と門の外、10mくらいの距離でしばらくやりとりをする。相手にまったくひるむ様子がないので「警察を呼ぶぞ」と脅すが、「警察が来ればいろいろあるだろうから同窓会に間に合わないだろうな、、」と、通報の電話口でそのへんをどう説明すればいいだろうかと葛藤していたら目が覚めた。というような夢を見た。

 初恋の相手が夢に出てくるというのはあまり記憶にないが、たん忘れているだけで、数年に一度くらいは見ているような気もする。ただ、加齢した生々しい姿(見たことがないので勝手な想像)で夢に出てきたのはおそらく今回が初めてだったので新鮮に感じた。



~2~
 まっ青なジャージの上下を着た、気違いの中年男性(どのような気違いなのかは分からない)。蝉の声のまねがものすごくうまい。じつは自分が今までに聴いてきた蝉の声の半分くらいはこの男の物まねだったと知らされる。へえそうだったのかと納得する。なぜか驚かない。

~3~
 実家から数キロはなれた所を散歩している。秋晴れ。田畑だらけの風景。川の気配もある。曲がりくねった埃っぽい未舗装の路を歩いて行くと、朽ちた大きな木造家屋が何軒もたっている。たくさんの稲穂が散らばる(干している?)ぼろぼろの大きな納屋の奥から、大音量の演歌のようなのが聴こえてくる。通りからは見えないが誰かが作業している様子。路地裏を覗き込むと山(丘)の陰になった所にぼろぼろの文化住宅がひしめき合って建っているのを見つけ、心が動く。路地に入っていってそばで見てみたいと思うが、納屋で作業している人の気配も気になるし、もうボロ家もいいかという気持ちもあって、少し考えてから通り過ぎる。
 稲刈りがすんだ田んぼに、木で組まれた見たこともない大掛かりな構造物(どこかお祭りのような雰囲気の)があり、そこで大量の稲を干している。稲穂が金色に輝き、真ん中が空洞になっているので、まるで巨大な金の額縁に見える。そして向こう側の風景(さっき歩いてきた大きな農家や納屋)も、田んぼの開けたこちら側から眺めると、秋の陽射しに金色に光り、風景画のように見える。カメラを取りに実家まで引き返そうか迷う。しかしすぐ日が落ちて暗くなるような気がする。
 さらに歩いて行くと、中学校の近くらしい場所にでた。なぜか川に大量の稲穂が流れていて、すごい景色。土手から川に注ぎ込む下水溝(?)付近の、流れが淀んでいるところに、やはり大量の稲穂が積み上がるように停滞していて、陽射しに照らされ、異様なほど金色に光っている。土手に積み上がった乾いた稲穂と、水の底の稲穂、微妙にトーンの違う金色で、その対比がものすごくきれい。また、カメラを取りに実家まで戻るか迷うが、日暮れも近い気がする。たちすくんで「明日も川には稲穂が流れているのだろうか」と考える。対岸の土手を知っている人が自転車で通ったような気がする。



 以上、記録していた夢三題。
 青いジャージのおっさんの方は、もっと流れや細部があったはずなんだけど、忘れてしまった。
 起きてすぐに記録する。慣れてきてるので、夢から覚めて(半分目覚めて)布団の中にいる間に、夢の細部と全体の流れを思い返し、記憶が崩れないようにする。はっきり目覚め、頭の中の朦朧とした霧のような夢のムードが晴れてしまうと、すぐに断片化が始まり、粉々になって忘れさってしまう。
 夢と現実では、それぞれ脳の違う部分が記憶しているような気がする。布団の中でぐずぐずしている時に、頭のなかで必死に、夢の記憶から現実の記憶に移しかえてるという感覚がある。いや、違う部分が記憶するというより、夢は見ているあいだだけ、ほんのつかの間の一時記憶で、現実の記憶は、一時記憶されたのち→そこから理解できた範囲(各々の理性が受けとめ、解釈の及ぶ範囲)だけが汲みとられ、残っていく感じなのかしら。
 夢を記録する時は、自分の記憶の、夢と現実の境界付近を彷徨うような気分。夢そのままの、辻褄のあわない非合理な感触が崩れないように、境界は完全に見極めてしまってはダメ。境界を見定めるような頭の使い方をすると霧が晴れてしまう。さっきも書いたけど、はっきり覚醒してしまうと、夢の記憶が砕け散る。
 こうして、(境界をあやふやにするために境界を意識する、みたいな)夢の記録のプロセスを改めてふりかえり、書いていると、漠然と自分の中に持っていた夢と現実の境のようなものが、なんだかあやふやになってくるというか、なにがはっきりと現実と言いきれて、なにが夢と言いきれるのか、おぼつかなくなってくる。頭の中と外で起きてることで何がどうはっきり違うのか。安定感? 我々の理性が外側のものを、より安定化、定着しやすいように発達してきたというだけなのではないだろうか。じつは夢のほうが厳然(厳然たる非合理)としていて、私が私の理性だと思っているしょうもない思い込みが理解解釈できた「現実の記憶」(かろうじて「現実」と認定し受け止めたもの)の方が、夢みたいなもののような気もしてくる。ああ「現実逃避」って、くそ長ったらしく書くとこういうことなんですかね。。
 なにか、正直に書こうとすればするほど、どんどん気違いっぽくなってきますね。。