砂まじりの茅ヶ崎

 ずっとこもっていたので、久しぶりに近所をうろうろしてみんかと出かけたんだけど、あまりに暑くてモリソバを食ってさっさと帰ってきた。近所の廃れスポットが一つ消えていて残念だった。それから、ここの日記を開いてみたりしていた。七夕の時に撮った写真が、なんだか大昔のもののように見えてふしぎだった。たかだか一ケ月前なんだけど、どこでもないような、いつでもないような感じにみえる。やはり、そういう写真が好きなような気がする。どうやったらそういうふうに撮れるんですかね。

 あれからもずっとピクシブをやっている。日記代わりに描いている。今まで生きてきて、こんなにイラストを描いたことはないってくらいに、なんかしら四六時中描いている。学生の終わりの頃はやれファインアートだチューショーだとかいってどうにもならないものを描いていた(つうか、描いてあるものを消していた)ので、純粋にイラストつって描くのは小中学生の頃以来かもしれない。
 イラストってなんだろう、あんまり考えたことがないので、よく分らない。デザインや商業美術みたいなもんで、世の中やら時代の需要(顕在潜在的問わず)に応じて、人の欲望の為に描かれるものっつう捉え方をしてきたような気がする。そういえば、学生の頃に先生が言ってた「アートは欲求、デザインは欲望」なんて言葉が頭を掠めるけど、未だにあれがよく分らない。なんとなくは分るんだけども、いやはや乱暴だなーとも思う。そういえば例外的に、商業美術から出発して結果ファインアートにまで影響してしまったウォーホルさんなどもおりますね。まあアート云々はどうでもいいか。

 しかし、ずーっと適当に描いていてもアレなので、なんかしら余計なことを考えちゃうわけなんだけど、ついこの前は、サザンの「砂まじりのーちーがさきー」っていうフレーズが頭から離れないことがあった。それで「砂まじりの茅ヶ崎」で(どうにもならない)連作とかしていた。歌詞の文法が破綻しまくりなんだけど、ポップスとして抵抗感をあまり感じさせないのがすごいと、そのむかし近田春夫先生なんかが指摘してました。そら、芸術ぶりたいだけの、ただ聴き手を構えさせるのが目的になっちゃってる文法の脱臼なら耳なれてるし、そういうのは論外として、サザンのはなんか全力でどポップス(大衆歌謡)一直線な気がして、そういうのが確かにすげえなと思いますね。――夏の日の思いでは、ちょいと瞳の中に消えたほどに――。ぶっ壊れてるけど、あの唄で聴くとあんまり違和感を感じないっていう。例えば、そういうふうにイラストが描けないかなって。また、わけの分らないことを言い出しておりますが。イラストもポップスも、大衆向けなわけじゃないですか。「砂まじりの茅ヶ崎」的な言葉、それを支える曲、その構造性みたいなものを、イラストでアレできないかなあって。かなあってってね。 なにぶん具体的な方法は分らないので、とりあえず「砂まじりの茅ヶ崎〜」と口ずさみながら、砂まじりの茅ヶ崎を意識して手を動かしただけですけれども。

 それから、やはり人のイラストみてても勉強になる。勉強になるっつうか、わりと「スゲー」と見愡れてしまって、実際はあんまり勉強してないけども。無意味っぽいというか、軽いのが描ける人はすごい。重いのは誰でも描けるけど、軽いのは難しい。まず、天然っぽい人にはかなわない。天然じゃなくて、わりあいまともっぽい人が努力(計算とか技術)で軽くしようとして成功してるのは、すごく勉強になるし、見ごたえを感じる。
 あの、軽い絵ってなんですかね。普通はどうやっても手数をかければかけただけ重くなってしまうはずなのに、手数をかけない、という方法以外で、技術で軽い絵を描ける方がいる。意味や、なにかの重力から解き放たれたように軽やか、だけど画像としては、そこにはっきり存在しているという、ハリボテのような絵。描けば描くほど軽くなるというのは実際すごいなと思う。言葉で説明できなかったり、言葉に置き換えられないただ軽い絵というのは、その絵でしか表現できない何かを生み出しているということなのだから、(言葉に置き換えられない視覚表現、言葉に置き換えられない音楽が優れている、という意味合いで)表現性が高いってことなのかな?とも思う。

 長々と偉そうに書いて来ましたが、自分はしょぼいのしか描けないので、いろいろアレしないとなと反省しております。そしてまた日記的にイラストをだらだらとアレしていきたいと思います。それでは。