ボロ家のこと


 ついこの前、某配信にて、ワタスがたまに日記に掲載していたボロ家の写真について「郷愁があって云々」というお話を耳にしてから、「郷愁ってなんだろうな」ということをたまに考えている。近ごろも、出かける時は「なんか撮りたいな」という気持ちはあるんだけれど、だいたい行動範囲内のボロ家も撮りつくしてしまったというか、ちょっと良さそうなお宅を見かけてもカメラを向ける気にならなくなってしまった。「こういうのを撮ると、だいたいこんな絵が出てきて、こんな感じだろうな」などと、だいたい先にあれこれ想像してまって、もうそれで撮った気になっているというか。飽きてるということなのだろうか。それでも気に入っている物件だと、何度も何度もくり返し撮りたくなるものもある。何回撮っても撮りたりないというか。幾度向き合いシャッターを押してみても「もっと本当はこうなのに」と、出てくる画像に満足出来なかったりもする。
 そもそもワタスがボロ家や雰囲気のある路地を撮りたくなったのは、油断してるとあっけなく無くなってしまっているのがとても残念だったからで、それで記録用に撮影しておきたいという気持ちが強かった。だから「郷愁」がどうのとか、あまりそういうことは考えて撮っていなかったし、情緒がどうこうとか、絵的にどうこうとか、それを記録する意味だとかには無頓着で、とりあえず記録だけしておいて、それがどうなるかみたいなことは全部後回しだった。後回しというか、考える気があんまりなかった。
 郷愁(ノスタルジー)という言葉も、なにか便利すぎて油断ならないというか、いかにも広告とかものを売るための言葉みたいで馴染めなかった。それから、女の子がなにかを観て「カワイイ」と言うのと同じような感じというか、「郷愁」という言葉を使ったら最後、そこで思考停止してしまうような、保留して考えるのを先送りにしている感じ。まあ、考えるのを先送りにするのは今の自分も一緒なんだけど、「郷愁」という複雑で微妙な言葉にして、そこでなんとなく安心してしまうのは嫌な感じがしていた。心のどこかで、もっといろいろな意味や、もっとぴったりくる言葉を期待していた(いる)気がする。
 そういえば、石を観賞する時に「一個の石の中に広がる風景を眺める」なんて話を聴いたりするけど、ボロ家を眺める時もそういうものを感じる。どちらも自然の彫刻、時間の造形物という見方もできる。クソつまらない新築住宅*1とボロ家では五感に訴えかける情報量が圧倒的に違う。錆びたトタンのフラクタル、ひび割れた壁の木目、傾いた臭突、つり下がったままの風鈴、未舗装の路地、かつて水平垂直を描いていた構造物が朽ち傾き、そこに複雑な角度と時間が折り重なる。そして眺める人の情緒に感応し発生する情報。「眺める意思」というか「観たいものを観たいという気持ち」次第で、やはりボロ家は一つの風景だなと感じる。好きなボロ家の画像を貼ってみたけど、濡れたボロ家はますますいい。雑多な素材のコントラストが際立ち、(ボロ家という風景の中を)複雑な角度を乱反射する光が交錯する。そういえば石の観賞も、水で濡らして違う表情を楽しむと聴いたりする。
 たとえば、石を観賞する場合にも、やはりそこには「郷愁」という概念が介在するのだろうか。生物学的スケールを越えた「長い時間の記憶物」という見られ方をするのかな。しかし無闇に話がでかくなりそうなので、ボロ家がお好きな方は各自考えていただきたいなと思います。

*1:「クソ」と付けてしまうのは、ボロ家が無くなると、そこには必ず新築が建つので(当たり前だけど)、それがいつも腹だたしいのです。