ただのバカ、静かなバカ、エレガント(優雅)なバカ、荘厳な雰囲気をまとうバカ

 いかにもバカっぽいバカは本当のバカじゃなくて、静かに自分のしているバカを見つめながらバカをやるバカが望ましいバカだ。そういうバカ者が好きだし尊敬する。できれば自分もそうありたいと願う。
 騒いだりはしゃいだりするのとバカは違う。騒いだりはしゃいだりして、静かにものを考えられるわけがない。世の中的に、騒いだりはしゃいだりやたらと過剰だったり物を考えないことが「バカのスタンダード」とされているように感じる。バカについて考えること自体がバカバカしいということなのだろうか。騒いだりはしゃいだりするのは、単なる運動への生物的、本能的な欲求で、バカと「本能的であること」を混同すべきではないと強く思う。バカはもっと生物的宿命から解き放たれた、精神的、文化的(質感を備えるべき)であるべきと感じる。
 普段、ここの作文でも、人様に向かって(賞賛するつもりで)「バカで好き」と書いたり、「バカで好き」と書きたいんだけど寸でのところで思いとどまったりすることが多い。ご本人はバカをやるつもりではないのかも知れないし、おお真面目なのかも知れないから。そういう不注意で人付き合いをふいにしたくないなあと思い、気を使うけど、ちゃんとコントロール出来てる自信がない。やはり素直に(賞賛として)「バカ」と書きたい気持ちはつきまとう。
 冒頭に掲げた「ただのバカ、静かなバカ、エレガント(優雅)なバカ、荘厳な雰囲気をまとうバカ」は、私の考える「バカの段階」「バカの進化の諸相」のようなものを暫定的に示してみたのだが、「荘厳な雰囲気をまとうバカ」の段階までいくと、私的には「芸術家」とほぼ同義である。この作文にも日頃登場する尊敬すべき人物たちに贈りたい。そして「いつも、おつかれさまです!」と。

※気に障る方は、文中の「バカ」を、「しあわせな人生」「おいしい食事」「睡眠」「セックス」「美」「神さま」「真理探究」とか、あなたが価値を認めるなにかに入れかえてお読み下さい。読まなくてもぜんぜん大丈夫です。