いつもどおり暇だったので、記事カテゴリ「作業」を新設しました。「軽作業」も作ってみましたが内容は未定です。「カテゴリを作ってから、あとで内容を考える」というのがコンセプトのカテゴリです。うそです。

 夜っぴき作業。イヤダさん(誰)の先月の日記を見返す。
 いろいろ気になる言葉を拾ってて、やはり一個一個の言葉のパンチがすごいなと感じましたね。食あたりとか湯あたり的な感じで「言葉あたり」起こすみたいな感覚がありますね。もう、どうやって自分の日記書けばいいか分んね、っつう。こういうのは、ほどほどにするべきだなと。
 それから、日記を読み返していて感じたのは「意外と、いつもなんかしらモノを欲しがってる人なんだなあ」ということですね。「食欲がなくてキュウリばっか食ってた」とか、そういう文章のイメージが強かったせいか、僧侶みたいな人っていう(勝手な)印象があったのかも知れない。あるていど「ものを欲しがる」って大事な気がする。漠然とだけど(今のワタスの心境からすると)なんか健康な感じがするんですよね。 アタス、ここんところずっと「ものを欲しがってないな」と思った。ずっと、ものを観てないし触れてないなと。ものを欲しがる気分を忘れてる気がする。
 「ものを欲しがる」→「欲望」という言葉に置き換えていいのかも微妙。 イヤダさん(誰)のを読んでて、「作文することに対する欲望」は感じるけど、登場するものに対する欲望は不思議と感じない。「欲望」という言葉についてちゃんと考えたことがないので、まあ適当ですけれども。そういえば「荒川洋治・知識を書かないこと・情報を書かないこと・何も書かないこと」みたいな言葉がひかれていたけど、「言葉に対する欲望」みたいな部分には、きっとふだんから自覚的なのでしょうね。つうかケータイであの長文打ってるというのが理解を越えてるなと今頃思う。アレですか。新人類とかいうアレですか。

 「無駄」「純粋な創作」「作業として純粋」みたいなことを書いてて、へ先生の「大根ストリートビュー」をふと思い出した。ああいうの「純粋な行為」っていうのだろうか。じつはすごい意味があるのかもしれないけど、あの(大根ストリートビューっていう)言葉、写真、雰囲気、佇まいが発散する無意味さは強力だ。
 ふだん、へいみん先生の記事を読んでると、(基調としての)人間讃歌みたいなのを感じるんだけど「大根ストリートビュー」はちょっと異質だなと。もっと野心的かつ確信的に無意味な気がするんです。(「基調としての人間讃歌」つうのも、ものすごいいい加減です。「毎日の営み、生理、無為を淡々と記録する」のと「読んでる人がいい気分になればいい」と書いてるのを読んでから、アタスが勝手に漠然とそういう印象を持ってるだけで。)
 「大根ストリートビュー」ってなんでしょうね。深いテーマがあるんだろうか。「食べ物を外に持っていって撮る」シリーズは「内部と外部」「個人と世界の境界」とか、なんかそういう問題にするどくアレしてるように思うんだけど。そういうのにも似てんのかなあとか思うけど。
 さて、今日は部屋に食べ物が無さそうなので、あとでどうにかしないと。それではまた。