おかしな旅の誘いは、神の授ける(ひかりと無気力の)ダンスレッスン

 朝がきても外の光がちらちらしないので、窓から顔を出すと空が曇ってひんやりしていた。大儀そうに踏み切りが鳴らすそばから、音が冷たい白いところにむかってすぐ吸い込まれる。白っぽい舞台装置のような朝。すぐ裏で効果音でも再生しているように遠近感がない。コーヒーを飲み過ぎなのか頭痛がする前の気配がする。眉間のあたりをなでながら、ほとんど椅子のうえでぐにゃっとしたままだ。
 さっき、きまぐれで放送用掲示板をひらいてみると、jk氏の書き込みがあって魂消た。一瞬釣りかと思ったけど、そもそもこんなどうしょうもない中年を釣る理由もないわな。いや、でも物好きな方もいるかも知れないし。そんな物好きな君の瞳に乾杯☆とばかりに全力で釣られてみる。返信してみて、うああ三ケ月も開いてなかったのか、、と気付く。多分放送再開はないだろうし、あっちは気付かないかと思います。消しはしませんが。
 jk氏の言葉は感激ですが、アタスみたいなしょうもない中年には、正直いろいろ荷が重いというか。。難しいことはお手上げですしねえ。




 昨日書いた、そのむかし朝や夜に独りで聴いていた音楽を思い出そうとする。いや。朝や夜に独りで音楽を聴きたくなったあの気分を思い出そうと。。少時無駄にもがく。 どんなのを独りで聴いていたか、アーティスト名やタイトルはもちろん覚えてるけど、なにか静まり返った気持ちで、独りで棚をがさごそして、プレーヤにのせて、そっと針をおくような、あの気持ちを思い出そうとしてみる。なかなか難しい。やはり、久しくそういうことをしなくなってしまったなあと思う。疲れて「あーだこーだもう全部めんどくせえ!」というちょっと自暴自棄な気分にならないと、ああいうふうにはならないのだろうな。
 エリザベス・コットンの再発されたあのCD*1は、当時やたら朝の起き抜けに聴いた思い出がある。半年ほどCDプレーヤに入れっぱなしだったくらい。起床し再生ボタンを押し、人事不省のまま椅子のうえでぐにゃっとしていた。すっかり、徐々に戻ってくるあの意識のグラデーションのBGMになってしまった。それから数年後、普通に聴いていたら同居人から「朝かと思った」などと突っ込まれたくらい。いま思い出すとちょっと恥ずかしい。なんでアタスみたいな軽薄者がブルースなのか。ブルースつっても異色だけど、いくらなんでも唐突すぎるだろと。うそくさいんだよ、と。アタスがブルースを聴く理由がみつからないもん。いろいろ納得がいなかない。
 夜は夜でいろいろあった。スティーブ・キューンのあれ*2とか、レニーブローの唄もの*3とか。そういうのを闇の最深部、夜のおりかえし地点みたいなところで聴くのがお気に入りだったなあ。いま思うと、なんだただ酔ってるだけじゃん。ノンアルコールでまたお得な性格ですなと。。






 それから、宮本先生の「五月の陽射し」のことを考えたり、聴きかえしたりしていた。
 Download*4


 これも、よく独りでひっそりと聴いた。個人的に、よく納得のないまま涙腺にくる唄だ。光や陰、風や温度や湿度みたいなもの、いろんな気配みたいなものが渦まいていて、知らずに自分もその気配の中にいるよう。歌っている人と同じ風景を見ているような再現性を感じる。それから、そこはかとなく漂う「不能感」「無能感」みたいなもの。不能、無能を理解するやさしさ、思いやりというか、不能、無能であることへの肯定というか。。いや、こんなすばらしい曲を書いて唄うのに片手間という、「出来るのにやらない」ってのが「不能」そのものなのでしょう。



 よる。また汁なし坦々麺みたいなやつをやる。料理サイトを参考に作り方を変えたそうだが、ものすごい勢いでまずくなった。途中で気持ち悪くなる。これは腹が減ってないと無理そうなので、とりあえずラップをかけて保留。





 イヤダさんの持ち物自慢のやつを読む。やっぱりおもしろい。「行ったこともない場所の絵葉書」は、たしかにサイケだなあという印象。自分も(たまーに覗いたりする)古本屋の片隅にこういうのがあったりすると、しげしげと眺めてしまう。ああいうサイケな意匠になるのは、エキゾティシズムみたいなものとも関係あるのかな。例えばアメリカ人にとってのエキゾの対象「50年代のハワイ、60年代の月」みたいな。楽園、ここではないどこかへの憧れみたいなものが、ああいう過剰さにつながるのかしら。
 そういえばユーチューブでごにょごにょしてたとき、ダーク・ダックスによる「行川アイランド」というリゾート地のキャペーンソングを投稿したことがあった。ジャケのエキゾ風なフラミンゴと裏ジャケの観光案内みたいな文章をフィーチャーし、頼まれもしないのに無駄に(すでに現存するのかも怪しい行川アイランドの)CM風に作った。完全に悪ノリという。あれは作ってて「うわーこれ無駄だなー!」と楽しかった。観せられる方はたまったもんじゃないと思うが。*5
 しおり収集は前に読んだ時も強烈だったけど、やはり素晴らしいなと思う。特に「自主制作しおり」っていう言葉自体の持つパンチ力がものすごい。ある意味、コレクションの極北だなと思うし、ああいうのを見せられると、改めて収集という人の営みについての根本的な再考を促される。ものすごく文化的だと思う。「手作りのしおり」という、端からみればなにもない不毛地帯のようなところに価値や意義を見つけ喜ぶこと。限り無く0に近いところから価値や意義を作り出すこと。それこそが文化的行為だし人の知恵だと思う。画像のしおり一枚一枚を眺めてみても、なにかドラマみたいなものを感じるし(老人ホームの人が作ってるんだっけ)、ああしてコレクションとして量が集まった時発揮される得体の知れないエネルギーもすごい。法悦っていうのかな、分らないけど、宗教っぽい感じもある。 神社の絵馬や、七夕の短冊を眺めたりする感じにも似てるなと。名もなき民衆の声にならない声、情念、クリエイティビティが塊になった時の圧力というか。ボルタンスキーの作品*6のようでもある。 「自主制作しおり」。原始の森で木の実やらを集めていた人類が進化し、ついにここまで到達したかという感慨さえある。なんですか、人類の次元上昇っていうんですか?アセンション? よく分らないけど、始ってるな、、って思いますよね。インディペンデント系しおり。


*1:http://www.youtube.com/watch?v=w4UWLBHL9wI

*2:http://www.youtube.com/watch?v=qLJ3fERSS1Q

*3:http://www.youtube.com/watch?v=c43s68ddEpM

*4:そのままだと先生にちょっとアレなので、あえて部屋の音と混ぜてみました。テレビ、電車、コーヒーの音など。

*5:http://www.youtube.com/watch?v=NvhC-PcT2v8

*6:christian boltanski画像検索 http://www.google.co.jp/images?q=christian%20boltanski&hl=ja&safe=off&gbv=2&ndsp=18&um=1&ie=UTF-8&source=og&sa=N&tab=wi