ある路地の思いで

 ちゃんと勤め人として働いていた時分は、帰宅してなにがしか食べてぼんやりして寝る真際に、「ああもう全部面倒くさいなあ」という気分で日記に不時着し、そしてゆっくり、ぽそぽそと言葉が出てくるという感じだった。「言葉」なんて書くと偉そうだけど。「ああもう全部面倒くさいなあ」ということしか書いてないのだけれど。
 今はまったく疲れないし時間も無制限だからか、日記に向かえば知らず知らず饒舌になり、作文はカサばかり増してゆく。そしてあくる日読み返すと、そこには自分とは思えないような幸せそうな元気そうな人がいて、それがグロテスクで気持ち悪い。グロテスクという言葉は使い慣れないのだけど、きっと「グロテスク」ってこういう感じなんだろうなあという予感みたいなのがつのる。 

 堕胎、ということが、どのくらい悪いことなのかということを、ここ数年たまに思い出すように考える。
 堕胎について書こうと思ったここ2週間ほどは、毎日、寝る前くらいに、堕胎ということがどのくらい悪いことなのか、考えている。自分で分らなければ、他人に聞けばいいのだろうか。身近にそういうことを聞ける友達がいないと思う。そもそも友達自体いない。ネットで何かを見ればいいのだろうか。どこかで「堕胎がどのくらい悪いことだ」というアンケートでも読めば、自分は納得するのだろうか?
 生まれてこようとする命を殺すということである。ものすごく悪いことだということは分る。カトリックだか強く禁じる宗教もあると聞く。ただ自分はなんの信仰ももたない。信仰をもたないから善悪を計るようなことが出来ないのだろうか? 「計る」という言葉は適切じゃないのだろうか。悪いのは分る。ただ罪の重さ、ことの重さを実感出来ない。どのくらい重く受けとめ、反省しなければいけないことなのか、見当がつかない。
 宗教でなくてもなんでもいい「なにかを信じることが出来ない人は、目の前の罪が罪であると信じられない」ということなのだろうか?

 思えばずっとなにも信じないで生きてきたように思う。なによりもまず、自分自身というのを一番信じていない。*1
 思えばずっとなにも信じないで生きてきたように思う。なにも信じてなければ、それは生きてないということなのだろうか? 吸って吐く、たばこのけむり。コーヒー、ライター、よごれたキーボード、叩く音、窓の外のひかり、電車の振動。そしてこのうわ言はなんなのだろう。なにも信じないで逃げ回る抜け殻のような人間の周りの幻だ。 




 むかし、堕胎を決めた時。互いに話し合い、双方がそうするのが最善という結論を出した。よく考えた結果、そうするしかないということになった。しかしあるきっかけから、あの時、もっと考えるべきだったのか? その罪の重さを本当に考えていたのか?という思いが増し、以来ずっとそれに捕らわれつづけている。
 堕胎から数年後。(堕胎を決めた)私とその相手は、よく場末を散歩していた。自転車に乗り、都内の寂しげな場所をうろうろするような週末がずっと続いた。ある日、荒川の路地を彷徨っているうち、予期せず胞衣処理施設の前に出たことがあった。すすけた時代じみたレンガ塀の向うに、古いびた数棟の工場が見えた。門の横には神棚のようなものが祀られていた。産汚物を処理再利用する工場で、都内ではそこにしかないはずだった。そういう施設の知識は少しはあったが、そこに辿り着いたのはまったく偶然だったから、面食らった。
 そして少しづつ「これは水子に導かれたのだ」という思いが、頭の中を占めていった。その思いに縛られたように、私と相手は、一時間ほどそこで呆然としていた。時おり風が吹き抜け木立を揺らす以外、何も動かない静まり返った路地だった。
 薄れていた堕胎の記憶が強烈に甦えり、以後、堕胎ということの重さについて自問自答を繰り返すきっかけになった出来事だ。
 この堕胎に関する自問自答や、胸の疼きは、幻か。自分は本当に、信じているのか、信じることができるのか。

 今日はまたうろうろしに出かけようと思う。東の方になるかな、坂がめんどくさいけど。天気は曇りらしい。


*1:学生時代、絵を描いていた。創作するにあたって、自分と向き合うことを求められた。創作の第一歩はいつも、まず自分を疑い、信じないことから始った。きっとそれまで、すごく自信があって無自覚で、とにかく何が何でも「自分を信じて作る」という方法しか知らなかったから、反動で余計そうなってしまったように思う。でも「自分自身を信じない」というのが、いつの間にか「言い方」「言い逃れ」にすり変わってしまった。ただ自分と向き合うことから逃げて、自分がなんであるかという問題を先送りにしてきただけなのだろう。未だになにも信じられないというのは、未だに全部から逃げてるだけなのだろう。それで学生時代を通じて分ったのは、信じられない人には何も作れないという、ごくあたりまえことだった。出来上がったものだって信じていたのか微妙なのだから。結果的には、作る以前に「信じたり信念を持てない人は創作活動に向いていない」ということを数年かけて学んだような気がする。なにかを信じることが出来て正直で強い人たちが、作家を目指していった。