新島弥生の「恋はあせらず」という曲について


 今日の言い訳といたしましてはですね、なんでいつも「おとぎ話ふう」にこだわっているかというとですね、アタスが読んでいてそういうブログが好きだからです。「おとぎ話ふう」っていうのは、「ホントなのかウソなのか分らない」というか「ホントのようなウソのような」「ホントっぽいかつウソっぽい」というか「人を食ったような」というか、、まあよく分らないですね。そういう、よく分らない感じなのだと思います。 でも、いざ「おとぎ話ふう」に書くというのも難しいですね。気が小さいのでどんどん説明的というか、まとめよう、まとめようとしてしまいます。でもまとまりませんけどもね。
 あと、説明しよう説明しようとすると長くなりますね。読み返してみて、くそ長えよと思います。「3行でたのむ」とか、某掲示板っぽいああいうノリも昔は嫌いだったんですが、なにしろみんな疲れてるでしょうし、大して内容もないのにくそ長えのもアレかなあと昨今は考え直すようになってまいりました。ああいうのも一つのネチケットというやつなのかなあと(たぶん勘違い)。 実際、昨今の自分の日記を読み返すと、やたら長くてべらべら饒舌で妙に元気で、正直うざったいんです。どうも、おはようございます。

 午前4時半。すみれいろタイム。戸外からはなにやら雨あがりのしみじみした気配がしみ込んでまいります。
 いつにもまして無気力が充満してるので、今日は書かないかなあと思ってたけど、人様の日記を巡回していろいろ読んでいるうちに、もやもやしてきたので来てみました。
 昨夜は、汁なしタンタン麺というか、油ーめんみたいなのを食べた。感想としては、1・もっと食べたいな 2・うまい 
 この、「うまい」より「もっと食べたい」という感想がまず先にくるのが自分の中でポイントなんですけども、うまく伝えるのが難しいですね。「私は卑しい」と書けば5文字でこと足りるのかも知れないのですが、なんか寂しいので。 あとはいつもどおりコーヒーでごまかして朝まで。

 この前「パノラミオ」*1っていう、グ−グルマップやアースに自分の撮った写真を貼れるサービス(他の利用者からも閲覧可能)のことにちょっと触れたと思うんですが、巡回先の日記を拝見しているとイカす風景の写真を撮られてる方も多いようですので、みなさまいかがでしょうか?と少し思いました(まあ巡回先の方がここを読んでいるというアレはございませんが。。あの写真は何所なのだろう?と、いつも激しく気になっておるわけです)。 すごい面白い!とかいうアレでもないし、アタスがやってみた理由も、「たまたま左のパソコンが繋がりやすかったから」(昨日の日記参照)とかいう、(繋がらないから)ついったーをやらない(出来ない)というのと、まったく同じ土俵での腰砕けな動機なのですが。。 
 すごく個人的かつテキトーな理由で、そんなに面白くもないような場所の風景写真を投稿し、それが世界中の人が見れる地図上に配置されるのを観て、独りでにやにやしております。 ゆーちゅーぶと同じで「てきとーに投稿して、あとは知らないふりをしておいて、たまに様子を観に行ってまたにやにやする」みたいな使い方をしております。毎日ちょっとづつ服用、ちょっとずつにやにや、という漢方薬的な精神衛生ツールとしていかがでしょうか。あ、健常な方はそんなことでにやにやしないか。すみません自分が病気なだけでした。こうして書いてみてやっと気付くくらいですから相当なアレです。



 アタクス、しばらくゆーちゅーぶでごにょごにょやっておりましたが、ゆーちゅーぶでごにょごにょやっている時に出会った素晴らしい音源についてもおりおり触れておきたいなあと思ってたんですが、、まあそうすると日記がますますモリ沢山になってしまいますでしょ。どうしたもんかなあと思っていたのです。ここはまた「自分用の備忘」とかいういつものワケの分らない言い訳で書かせていただきます。しかしアレですね。「ゆーちゅーぶで聴くのにちょうどいい名曲」というのがあるんだなあって感じております。「ほしい」とか「探して買いたい」とかいうのとはまったく別の方向から、すごく気に入ってしまうというか。「ゆーちゅーぶでごにょごにょしてなかったら出会わないタイプの名曲」というか。 舘ひろしの「青い山脈 '88」なんですが。あの曲のカバーですね。これを喜んで聴いております。




 アタスの場合「舘ひろし」と聞くと、連想するのがイヤダさん(誰)なんですね。イヤダさん(誰)という方の日記を数年来拝読しておりまして、そこで「舘ひろしがいい」っていうのが一時頻出していたので(一時じゃなくて、クラシックなのかも知れない)、アタスの中で「舘ひろし」と言われるともう自動的にイヤダさん(誰)というくらいなのです。ただクールス時代とか未だにまともに聴いたことがないのですね、なんとなく「ああいう感じかなあ〜」でスルーしてたんですが、この「青い山脈 '88」を聴いてガツンときましたね。未だになにがいいんだか分らないのですが、繰り返し再生してしまうのです。こういう出合いはつねづね大切にしたいなと思っております。分析、整理出来ないけど先にグッと来てしまう感じ。おのれの感覚が拡張される感じ。これは成功してるコンテンポラリーアートに触れる感触にも通じるのでしょうし、(実体験はありませんが)新規に性感帯が開発される感覚などにも通じるのかなあと想像いたします。
 藤山一郎のオリジナルとは全く異なる世界観を示す、この独特すぎるカバーの解釈。どこを切り取っても「青く」も「山脈」でもなく、どちらかといえば「妖しく艶めく夜の都会の黒光り」という仕上り。ただ、そういった「異形のカバー」というだけなら、もっとすっきり納得できる気もするのです。この「青い山脈 '88」を自分の中で整理するには何かが足りない。
 日頃から「音痴」というのは一つのポップスの可能性と認識しておりますが、この舘ひろしの歌唱は「音痴」とも違いますよね。もちろん狙ってるような「へたうま」なら一発で興醒めいたしますし、それとも違う。明確に構築にも破壊にも向かわない、ただ独特としかいいようのない、ぬめりを帯びた歌唱。聴いていると「アーティスト性、タレント性ってなんなのだろう?」という再考を、アタスの胸に鋭く突き付けてくるのです。この独特のすわりのわるさ。それからアレンジ、演奏も何か「ちょうどいい」のですね(カバーだからよけい分り易いと思うのですが)。
 「気持ち悪さ」+「ちょうどよさ」=「ちょうどよい気持ち悪さ」で、舘ひろしの「青い山脈 '88」は再生するたび、私の新規拡張された感覚の一端にそのつど軟着陸しているように感じるのです。




 新島弥生の「恋はあせらず」。これは先の舘ひろしとはまた違う理由で喜んで聴いております。自分はアイドルポップスに暗いので、新島弥生という方がどういう方なのか一向に存じあげないのですが、一発でやられました。先の舘ひろしより、もっとなにか「ストレートの豪速球」というおもむきで心に飛び込んでまいりました。そして個人的に知識の足りないアイドルポップという分野から、ここまでピタっと心にフィットする曲に出会えたことに感激いたしました。92年という微妙な時期も(当時、今と全く違った感覚で違ったポップスにうつつを抜かしておったので)嬉しいのです。
 私的にそのツボを表現するなら「打ち込みAORアイドルポップス」という感じでしょうか。「エレポップとか打ち込みの(変な集中力が充満する)気持ちよさ」これと「AORっぽい演奏の構造感、安定感、曲の前向き加減」この組み合わせに、それらと相容れないような「アイドルものっぽい詞と歌唱の虚無感」が違和感なく同居して、ポップスの数分間に拡散、破綻することなく収まっている。私見では、アイドルポップスにそういう組み合わせの類型は多いという印象なのですが、それぞれの要素を取り出し単体で聴くと手ぬるいと感じる。その「手ぬるさ」が醍醐味と言われればそんな気もするんだけど、(それを頭では分っていても)アタスは今まで熱心に向き合えなかった。
 (「歌詞や唄のぬるさが、返って演奏や曲の構造感を強化する」というのは、アイドルものに限らず、普通のポップスやらAORを聴いていても個人的に強く実感するし、むしろ強く求めてる部分なんだけど、そういうコントラストを生むような「ぬるさ」と、先の「アイドルポップスのぬるい良さ」という世の論調には、アタスはつねづねズレを感じてた。) 
 新島弥生の「恋はあせらず」に関しては、それぞれの要素をばらばらに取り出してみても「いいなあー」とちゃんと聴けてしまうような、すごさを感じる。ざっくり言うと「なんかすごいちゃんとしてる」というか。「それぞれがちゃんとしてる要素を盛り込みすぎなぐらいなのに、それでもまだちゃんとしてる。すごい!」というか。実際、ボリウムを上げれば上げるほど幸福感だけが増幅して、そこになんのストレスもないのです。
 舘ひろしの「青い山脈 '88」の特筆すべき点が「すわりのわるさ」なら、こちらは「予想外のすわりのよさ」という感じでしょうか。「すわりのよさ」なんて日本語はないと思いますが、そこをどうか汲み取ってくださいまし。とにかくここで聴かれる「トゥッ、トゥュル」というまったくやる気のないスキャットは(それを映えさせるバックの演奏も含め)アタスが過去に聴いた「トゥッ、トゥュル」の中で最高峰だと感じました。