予定と違うブログコンテスト


 午後11時。焼きうどんなど食す。焼饂飩。「饂飩」という漢字はいつ観てもかわいい。それから2Lの炭酸水。合計250円。
 それからまた「なんか書いておきたいな」という気分がアレしてきたのでブログを開いてみる。めさんのコメントがあったので、放送用掲示板を観にいってみると、まさに放送中であった。。 どうしようかな、、と一瞬躊躇したが、15秒くらい迷ってから繋いで拝聴した。(この「どうしようかな」は、「また張り付きたくなって、めちゃくちゃな暮しに戻るかも」とか個人的なそういうアレ) およそ4,5ケ月ぶりくらいに声を聴いた。なつかしい。半年にも満たないブランクだけど、ただただ、なつかしい。声とか音声には特にそういうアレがあるのですかね。 ねとらじを聴くこと自体が半年ぶりなのだが、レスの仕方というか勝手も忘れてしまい、ただじつと聴く。ついでにただじつと手を見る(狂言)。 「レスの仕方」なんて別にないと思うのだが、一時やたら入り浸って気軽にレスしていた感覚だけは、昨日のことのように頭の隅に妙に生々しく残っているので、そういう懐かしい感覚と、実際にいざタイプしようとして0から何かを考えはじめる今の感覚のギャップに、ただ戸惑う。結局ただじつと聴きただじつと手を見るコースで番組終了まで30分ほど聴いた。「嗚呼、ねとらじ、、こういう感じだったよなあ!」とかいう変な感慨に耽りながら。。

 やはり改めて「自分で放送出来なくなった」ことが、自分がねとらじを離れた原因だと思った。別に自分から発信出来なくなったとしても単に一ファンとして謙虚にねとらじを聴き続けることも出来るし、そういうねとらじファンも多いのだから、自分は不純なファンとも思える。いや、ざっくり言えばファンじゃなかったのかも知れない。ちょっと離れてみるとそんなふうにも鑑みれる。「ファンです。好きですねとらじ」とかいう純粋でかわいい感じじゃなくて、もっと「なーんかねとらじとかいうのに関わってみたいぜ、げへへ」という下衆な欲望の方が強かった気もするし、ブログやmixiの代替物としてねとらじを考えていた節もある(もちろんそこは、ねとらじならではの特性も考慮した上で。どういうふうに出来るかやってみよー的な)。
 たとえば他人の放送を聴いてレスすることで、そこになにか痕跡を残すことも出来る。だけどレスというのはそれを引出した放送主のもののような気もする。突然「誰のもの」とか、ナンセンスというか、急によく分らないことを言い出しておりますが、、なんとなく漠然としたそういう思いが、自分のねとらじに対する情熱(おおげさ)を削いでいった気がする。やはり「自分でやってみてこそのねとらじ」とか「誰でもやろうと思えば出来るのがねとらじ」とか、アタスは漠然と思ってるんでしょうね。。一度放送する楽しみを知ってしまったからこそ、なくした反動も大きくて、受動的ねとらじファンに素直に戻ってそこに落ち着けなかったというか。。人の放送聴いてても「あーまた放送してえなちくしょう」とか思っちゃいますしね。なんだ、あれやこれや書いてきたけど、結局ただの妬みじゃないですか。

 「ブログやmixiの代替物としてねとらじ」で思い出したけど、そういえばゆーちゅーぶも(ヘビーユーザーみたいな人の間では)そういうコミュニケーションツールになってるんだなあと、どっぷりやってみて感じた。ただゆーちゅーぶはいろいろやってみる当初から「なるべく言葉は排除しよう、これであれこれ語り出したら音楽系メインでやってたブログとかmixiと変わらねーから」と思ってたから、いろいろ細かい反応があったり、コミュニケーションなんちゃらとしての機能性に気付いた頃には「結構つらいかも、いまいちど取り組み方を考えないと」と思った。自分もおしゃべりだから反応があればなんか返したいし、投稿する時に(調子に乗って)なんか書きたくなる → だけどそれをすれば(投稿するほうの気分的には)結局ブログなんかと変わらない → 嗚呼何がしたいんだアタス、、という。。 
 当初はもっと無心で、素のままに取り組むつもりだったのに、油断するといろいろ余計なことを考えてしまうのですね。。

 今朝はおとぎ話ふうじゃなくて、真面目になってしまいました。。
 今朝は本当は「自分の皮膚を食べる話。それを語り他人と共有すると、その目的と意味は変わってしまうのか?」「皮膚やら爪やら精液を何十年も溜めた人の話とか、雑学系はどこまでが面白くて、どこから嫌味になるのか?」関連して「自慰行為のネタを他人と共有することで、ネタの意味と質が変わってしまう話」。さらに「妥協の連続である対人性交渉と、純粋に「対自分」である自慰では、そこに要する繊細さと集中力が全く異なる云々」みたいな、もっとおとぎ話っぽい予定だったのですが、、ぜんぜん話が違うじゃねえか! それではまた。