まつりの印象

 24hリレーが始って、あっという間に過ぎ去っていった。気がついたら、わーっと始って、わーっと終わってましたね。寝過ごして出遅れたので、わーーと慌ててつかの間おまつり気分を味わう。企画者はじめ、みなさまおつかれさまでした。個人的には、今回の24hは例の機械を導入したこともあり、(部外者ながら)楽屋裏的なアレにもアレさせていただき、前回とはまた違った角度からお祭りを俯瞰できて、興味深かったり新鮮だったりした。で、肝心のラジオ自体をちゃんと聴いてたのか?と自分がちょっとアレなくらい、例の機械を通じて様々な方々と忙しくくるくるアレしていたので、そこいらへん本末転倒なのかもしれないけど、それはそれで楽しかった。いいじゃん、楽しければ、、と、自分に言い聞かせるような、後ろめたい気分もある。 ラジオを聴いて楽しかったのか、(実際は)祭にかこつけて例の機械でくるくるアレしていたのが楽しかったのか。。まあ、自分は例の機械の初心者だし、まだいろいろしょうがないですよ、それはもう。
 例の機械を使ってみて思うのは、例の機械導入前と比べ物にならないくらい、ねとらじというもの周辺に渦巻く人間模様、人との関わり合いに直面させられるということで、以前は、ねとらじ周辺に動く影のような、気配ぐらいにしか感じてなかったものが、より明確で具体的な個々の人格として触知できるということで、これはねとらじをやる上ではいろいろ考えさせられるアレだなと思った。そこで無自覚に取り組めば、ねとらじ配信が「単なる人付き合いの手段」になってしまう気がする。ねとらじが「人付き合い」を目的とした手段や方法になり下がってしまっては、なんとなくアレな気がするのである。あくまでも「ねとらじ」自体が目的でないと健全じゃないっつうか、やる意味がない。少なくとも、自分が尊敬する話者は「ねとらじ」自体が目的で、大好きでやってる方たちばかりのような気がしている。
 つっても、今はもう配信するすべを失った馬の骨ですから、別段に気にしなくてもいいことかも知れませんが、、なんやかんや凸とか細々したアレにいそしむ際にも、やはり初心を忘れたらダメだなーと。聴いてくれる人やレスを当たり前だと思ったらダメだなと。それから、(放送を重ねれば嫌でも出来てしまう)人間関係に寄りかかって手ぬるい気持ちで取り組むのもアレだ。毎回0からスタートする気構えで。それこそ、大海にメッセージボトルを投げ込んで、誰かが拾ってくれるのを待つような気持ち、細小にして最大限の期待と、畏敬の念を込めて、ねとらじに向き合っていかないとアカンと思いましたよ、ええ。

関連記事 : 前回24hリレーの感想文→ http://d.hatena.ne.jp/mahone/20090802