帰宅しても心は散歩し続けた

 ワールドカップの組分け抽選など観つつすみれ色の朝に就寝。昼過ぎだらりと起きてきてぼさぼさする。例のスカなんちゃらと呼ばれる文明の利器関連がどうにもアレなので、もうこのさい新しい機械をアレするとかしないとか、そんなこと周辺を寝ぼけたままタバコに火を点けつらつら考える。外は雨降り。夕方からTVでサッカー観戦。川崎の初Vの行方を見守ったりする。画面の向うがわもやはり雨で寒そう。それから戸外の雨をついて外回り。傘さしてチャリ。この季節は指がちぎれそう。くそ寒い雨の下うろうろしてるうち、なぜか猛烈に牛丼が食いたくなり、再びわざわざ雨の中を駅前まで。そこで気が変わって立ち食い蕎麦屋で暖かい饂飩とかき揚げ丼を食ったら、久しぶりに人間らしい気分を取りもどしたような気がした。貧ずれば鈍ずる。いろいろ追い込まれるといろいろ忘れてしまうのだ。たまには人間らしい気分を思い出してやって確認しないといけない。食うことに追われて自分が人間だってことも平気で忘れる。そして人間らしいものを食って「あーおれ人間だった」って思い出す。書いてみると莫迦莫迦しくてやってられない。「人間らしい気分って大切ですよね、分ってんのかそこいらを歩いてる人間どもよ」などと、饂飩を咀嚼しつつ窓の向こう雨ににじむ駅前通りに糞余計なお世話な視線を泳がせる。立ち食い蕎麦屋でうどんを頼むのも、胸焼けするかき揚げ丼を頼むのも、いつも後悔するパターンなんだが、(特に寒い時は)忘れて同じ間違いをくり返す。貧ずれば鈍ずる。

 最近は渋いねとらじ放送にいろいろ当れて「いいねー聴かせるねー」なんてにやにやしながら、なんかしつつ聴いてることが多い。地味&滋味あふれる歳の功トークみたいなやつ。歳食っててもなんかハッタリ型のは体が受付けないんだけど(多分、仕事ではったり野郎ばっか相手にしてきたのでそのへん過敏になってる気がする)、おっさんおばさんがなんかジトーっと低重心&低〜中姿勢で何ごとかぶつぶつやってるのが妙に肌に合う。謎のクイズおばさんは書き込みがあるのに読まない(リロードしてないのか)で「レスこないわねーさみしいわー」「BGMがないのがさみしいわね、でもBGMをかけたりする方法ってきっとややこしいんでしょうね」なんて独りごちつつイイ声で鼻歌ばっか歌う。おまえは桃井かと。その鼻歌がまた、おふくろの背中に幼児退行する勢いで郷愁をさそう。鼻歌にララバイを感じたのは○わこさん以来だな、だとか。
 それから(永年ねとらじされてる方みたいだけどつい最近知った)wkhgさんの語りが「聴かせるなー」なんて聴き惚れてみたり。なんつうか余裕で声が音楽になってるパターン。wkhg氏の個人サイトにある自作のポエムがまた良い。「うわーポエム良いわー」なんて読んだ後だと、余計話に聞き入ってしまう感じ。「これ書いた人がしゃべってるのかー」と素直に聴ける感じというか。しゃべり以外の表現の補強で、はったり感が一気に解除される感じというか。まーご本人様的にはそんなつもり(やらしい考え)はないのでしょうけれども。昨夜はその方の半生を綴った回顧録を読みながら某タ氏の自板を拝聴してたら、眼からはwkhg氏の半生、耳から某タ氏の日常が入力されて、頭の中でステレオミックスされた若某タ氏という謎の人格が形成された。ような気がした。
 夜。蕎麦屋からもどってきたらまたwkhg氏が放送されていて「アイヌの神話」だとかを朗読されていたのだが、出典は突拍子もない(内容もかなり放埒なものだった)のに語り自体は相変わらずじっくり低重心という、その取り合わせの妙に吸い付けられるように拝聴。今日はTVで格闘技を観ながら聴いた。眼は屈強な男たちの壮絶な殴り合いを捉え、耳からはwkhg氏の「アイヌ神話」朗読の妙なる調べ。頭の中で像を結ぶ、血を流して殴り合ういにしえのアイヌの神々。。やはり頭の中には謎めいたムードが充満し、やはり今までに味わったことのないような面妖な気色をしめしていた。「過去に、この気分に似た何かはないものか?」と納まりのいい類型を探してさまよう心。余韻に浸ってる時はいつもそんなふうにきっと心がさまよっているのだ。
 イヤダさんの名言「精神の散歩道」だか「精神的砂利道」をふと思い出す。「心を漫ろわせるものとしてのねとらじの機能性」についても(いつもどおり頼まれもしないのに独り勝手に)静かに心にとどめておこう。