ミクロやくざ


 鬼の機械二号機にてネット接続。ぎりぎり例の文明の利器を導入できたので、ぬさもとりあえずinしてコンタクトとかメッセとか火急的すみやかにアレするなど。マイクはついてるけどスペック的にアレなようで何度通話テストしてみてもうまくいかなかった。いろいろややこしい感じですみますん。またゆっくりメール返信させていただきます。でも長くならないように気を付けないとアレだなあと反省する。アホ日記書きの習慣とか、やんごとなき方に突撃する癖だとか、いつもどおり自分を見失ったまま突っ込んだら、また「なにこの人」扱いされてしまうからなー。

 オガーさんのラジオ拝聴。糞を漏らす話など。糞とはそんな簡単に漏れるものだったのかと興味深く聴く。自分は大きくなってから漏らした記憶はない。日頃から慢性的に腹がピーピーしてるので知らず知らず括約筋が鍛えられているような気もする。もちろん出ようとする糞とそれを阻止する筋力、単純に力対力の問題で片付けられない深いテーマだとは思う。むしろオガーさんらの対話は漏らす人間の諦念やら精神論周辺において展開していた模様。自分もかつて幾度となく「これは絶対無理だろ」「もうダメだ決壊する!」というような絶体絶命のビッグウェーブと対峙してきたが、そのつど鍛え上げた括約筋と「なにを犠牲にしてでも糞だけは漏らすまじ」という防糞最優先主義の精神でなんとか乗り越えてきた、便意の波を乗りこなすサーファーさながらに。丘サーファーならぬ糞サーファーとでも呼ぶべきか。括約筋に全神経を集中して気が狂いそうになりながらもパンツの純白は守ってきたものだ。ビッグウェーブを乗り越える瞬間、集中力が臨界を突き抜けると、まるで自分という存在そのものが巨大な括約筋、けつの弁にでもなったかのような面妖な感覚をもよおす。あれは不思議だと思う。自分が自分ではなく、自分自身がまるで自分のけつの弁になったような気分になる。火事場のくそ力なんて言うが、普段眠っている力が呼び覚まされている瞬間のようにも思える。
 そこでふと「なぜ、そこまでして糞を漏らさぬように努力しているのか」という根源的な問題に立ち返させられるわけだが、改めて考えてみるとどうもはっきりした理由を簡潔に述べられないことに気付く。とにかく「糞は漏らすべきではない」という漠然とした思いにとらわれて永年生きてきた。月並みだが自分の排便をコントロールできるということが人としての尊厳に関わる問題にも思えるし、また羞恥心無くして美を感受しうる繊細かつ変態的な感覚(糞や性の無制限の解放は感覚の鈍化につながるのではないか)を維持出来るのか?ということも思う。便所の作りの密閉性などからも日本人の特に排便を禁忌する民族性が明らかだが、照れや羞恥を感じない人間が同様に世界を前にして美や知を感受しうるのか? 人類が、抑圧なき世界で自由を、禁忌なき世界で快楽を感受しうるのか?という問題にも通底することのようにも思えるが。。 平気で糞を垂れ流す人間が語る美を信用すべきか、平気で糞を垂れ流すゆえに傾聴に値するのか? なんとも言えない。

 で、またぜんぜん話は変わるんだけれども「ミクロやくざ」というドラマを観た。海外ドラマなのだろうか?知った役者が一人も出て来ない。日本人ではなくなんとなくアジア系の役者が演じてるようにも見え、全編吹き替えだし、國虐的な演出も随所に散見できる。主人公の御黒だか弥勒という苗字の身長5mm程の仁侠が、敵対するやくざの会長の鼻の穴に日本刀片手に潜入したり、パチンコ台や自動雀卓の中に潜入して活躍するというもの。なんだこれ面白いなーと思ったら眼が覚めて夢だった。なんなんだろうか、近ごろは印象的な夢ばかり観る。眠りが浅いのだろうか。あまりにも生々しかったので本当にそういうドラマや映画があるのではないかとググってしまった。