ねとらじ耽美主義

 日曜よる。妖刀氏の放送と電気の20周年うんちゃらっていうFMの垂れ流しを録音しといてテレビ映画を観た。めんいんぶらっくである。世のポップカルチュアに対する自分の感覚はどうなんだろうか、だいじょうぶだろうか?と確認しつつ観賞。なんとなく楽しめたのでなんとなく大丈夫だと思う。電気の録音を聴いてみる。こちらも結成20周年を振り返るという興味深い内容に思えたので、なんとなく大丈夫だったと思う。大丈夫だろうか。電気の新曲っていうのがどうなってんのかなあーと気になってたのが聴けてよかった。エレクトリック寺尾聰は面白いけど、もっと冗談か本気なのか分らないくらいにやってほしい。それからもう一曲の曰く「思いのほかポップに仕上って気に入ってる」とかいう前口上でかけてたやつは「ポップ」の一言に身構えさせられたせいか、あんまポップに聴こえなかった。デビューのころの「自分らはメロディが好きだからヒプホプには徹っせない」なんて発言が記憶に刻まれているけど、電気のポップ成分でこんなもんなんだろうか、どうなんだろうか。まあいいか。

 次に妖刀氏のを聴いてみる。○中要次「あるよ」は腹痛かった。ただ落ちついて改めて鑑みると、エビゾウの物真似のほうがより詩性を感じるのはなぜだろうか。「あるよ」は「妖刀氏がやらなきゃダメ」という感じがあまりしない、ということだろうか。妖刀氏のエビゾウの物真似にはヴァルターベンヤミンによるところのアウラ(オーラと同義、表現の一回性*1)が宿ってるとでもいうのだろうか。そしてポップアートの時代、視覚表現のアウラを壊す試みとしてアンディ・ウォーホルキャンベルスープ缶の図像をシルクスクリーンで反復させたが、妖刀氏は「あるよ」を連呼することでねとらじアウラを解体した。うそ。
 もっと言ってしまえば、自分が妖刀氏の放送に期待するのは「森を歩いていて俺という大樹を切り倒した時、年輪が大きい方が南だ!」発言にみられるような高純度な詩性であり、「『部屋に溜めておいた空き缶を捨てるのがめんどくせえから夜中に裏の川原に捨てた』と何気なく告白したらスレから総叩きにあってうろたえる」ような劇性であり、配信中、戸外から聴こえてくる珍走団の騒音やら突然始まる打ち上げ花火の音に対する「うっせえな。。」というつぶやき、そこにある「音と意味の織りなすラジオ空間」の魔法なのである。

 いちいち「美ー美ーうるせえなおっさん」という感じだが、(大喜利だけでなく)やはり私はことねとらじにおいても耽美派なのである。*2 美にふけると書いて耽美。結局は美しいものが聴きたいだけである。 美とは何か? べつにきれいな配信が聴きたいわけじゃない。向き合うことで己の感覚、意識、感受性の限界を拡張せしむるのが美である。砕いて言えば「こっからこっちは感じ取れるけど、そっから先は無理」という観者の感受性の限界、感性のリミッターを解除し、更新してくれるものを美と捉えている。
 なにか圧倒的な力づくで観衆の感性の限界を打ち砕く正攻法もあれば、意味とか価値をつるっと転倒させて足下をすくったり眼から鱗を落とすような方法もある。たとえば現代美術におけるシミュレーショニズムが、美術館に便器を置いてみたり、椅子と辞書の「椅子」のページを飾ったりするように、ねとらじ配信に便器やら日付けだけをびっしり描いた支持体をのせるような方法もあるだろう。ただあからさまなのには食傷してるし、それこそ環境音と鼻息のハーモニー配信を有難がる「ありがたがり隊」みたいになるのもうんざりなのだけれど。。 もっと姑息な方法、こちらを油断させといてサクっと殺してくれるような方法が望ましい。ここに方法としてのポップ(大衆性)の重要性が見つけられると思う。
 なんだか「美」の部分を「真理」にしたら、そのままjkの文章になってしまいかねないので若干方向修正するが、私の場合、汎神主義ならぬ汎美主義なのである。そこいらに不偏に美は存在する。そう考えた方が楽しいから、むしろそう考えないとやってらんないから、生きてらんないから。金がある時はレコードを買ったりしてそこにひそむ美を追い求め、己の感覚を拡張してきたわけだが、金、そして自分のためになんかしゃべり続けてくれる友達もいない今、己の感覚を不断に更新するにはねとらじが必要なのだ。以上、私がねとらじに美を求める所以をざっくりと書いてみた。

 あさ。数日ぶりにm次郎屋氏のを聴く。なんかだいぶさっぱりした感じ。
 「聴いてくれる人がなくてもDJは話すべき、読まれないの覚悟でリスナーは書き込むべき」 例えば、このような話者と聴者の関係性について心を馳せる。ねとらじにおける「最低限の話者と聴者の関係」(レスしないと普通のラジオになってしまうが、しゃべらないラジオもねとらじならではだ)。「もっとも微弱な、世界への影響力としてのねとらじ」。
 「レスがついたとして、そのレスの集積のようなものが目の前にあったとしても、それをなんと呼べばいいのだろう。やはり虚像だ。虚像に向かって、何ごとかぶつぶつ喋る。空気の振動が電気信号に変換され、なにもない暗闇に向かってとけてゆく。言葉の熱だけはモニタ周辺にとどまり、その温度だけを頼りに、たえだえに言葉を継いでゆく、追い詰められたような人間の、次の一言を、決定的な一言を、かたずをのんで待つような放送。」*3
 話者と聴者が「掲示板も、そこにあるレスの集積も虚像だ」「いや、信じるべきだ」という瀬戸際をぎりぎり綱渡りするような意識で、配信を挟んで互いに対峙した時、そこに広がるねとらじの風景とはどんなものなのか、そういうことにただ興味がある。