でたハラワタをハラにもどすBGMとしてのねとらじ




 学友の個展を観に、文京区は音羽まで出かける。共に現代美術やなんやと学んだ学友だが、骨董商を経てなぜか今は作陶に従事している。学友の中には作家なった者もいるが、私といえば紙とうぇぶの意匠を経て目下素浪人まっしぐら。名の知れた編集者になった者、映像作家もいれば、実家の水商売を継いだ者もいる。手拭いを売る者いれば、玩具やら文房具を作る者もいる。パン屋をしながら趣味で活版印刷をする者もいれば、自衛隊に入隊してしまった者さえいる。めちゃくちゃである。現代美術はよく分らない。
 例によってちゃりんこで出かけたのだが寒くてこたえた。どやどやお邪魔してクローズまで、そのあとファミレスでメシを食って、あれとあれがくっついただの、あれが結婚しただの、学生時代とまったく変わらない話をして別れた。圧倒的に進歩がない感じだった。帰りは夜風がさらにキツかった。早く帰りたいんだけど早くこぐと今度は風が冷たくて如何ともしがたい感じだった。日付け変わって帰投して、それからめんどくさい作業で外を回る。もどって念入りにうがい。
 「おとわ」という地名は大好きだ。すごくかわいい感じがする。渋くてかっこいい感じもする。そっちは乙羽信子とかのイメージなんだろうか。よく分らないけど「おとわ」という地名が大好きだ。「根津」やら「湯島」やら、文京区の地名は不思議とかっこいい感じがする。「小石川」はかつて「礫川(こいしかわ)」と書いたそうで未だに施設名などに名残りがある。恥ずかしながら、それを自分はしばらく「はりつけがわ」と勘違いして読んでいて、川原で磔獄門でもしてたかのような勝手なイメージを持ちつつ「随分おっかねえ名前だな」とゾクゾクしていた記憶がある。おっかなかったり、どこか忌まわしい雰囲気の地名に目がない。大昔は土地と名前にもっと密な関係があって、忌地だの忌み地だの呼ばれるあれこれ因縁深い土地というものが明白に在った。今はその土地にヤレどんな施設があるだお店があるだの、うわっつらに張り付いてるものしか気にしない。一回、全部ひっぱがしてやればいいのに、とたまに思う。

 よふけ。○ンだのホルガー○ューカイだの○ングだのかけてる放送がどういうことをしゃべるのか、バッファをがまんして少時聴くなど。「○ルグルとか聴いてみたいんすよー」などという発言には軽く血が騒ぐ。前述のあれこれに比べたらグッとバカっぽくて享楽的でよいと思いますよ。自分の感覚からすると、やはりシゴキ系のを有難がってる向きを感じるなど。個人的には、ゼロセットとかリエゾンダンジュルーズとか聴けば済む話のようにも思うのだけれど。そのあと○○くんがしゃべっていたので聴いてたら最後に「世界に愛を」つってかけてるやつで心が洗われる思いがした。自身のことを「こういう痛いことを言っちゃうなんちゃらかんちゃら」とか言ってたけど、言う人によっては素直に聴けてしまうのが面白い。明け方。曙光に気狂う鬼ともめる。うっさいわほんとどうにかしてほしい。うっさいわほんとどうにかしてほしい。腸煮えくりかえりながら息をひそめてヘッドホンしてねとらじを聴いていると、「リスナーはDJを選べるけどDJはリスナーを選べない」でおなじみ例のおくびと耳をつんざく咳で美しく飾り立てられた鼻息配信にあたる。「この配信の主眼はやっぱ鼻息だよな」などと独り納得しつつ、ますますアレな気分で朝のすみれ色に包まれながら煮えくりかえって腹から飛び出した腸を所定の位置に押し込めもどす。

備忘。シゴキ系を有難がることと、他人の鼻息を有難がることの比較考察。鼻息とミニマリズム。シゴキ系(非ポップ?)音楽の土壌としての貴族文化、貴族気質。貴族とニートねとらじを聴くニート潜在的なシゴキ系への欲求。