なみだと接続

 鬼が動かないせいでいろいろ身動きがとれない。もんもんとする。
 オガーさんのラジオ拝聴。今週も「オガーさんやってるな感」を無事拝受する。苛烈なからあげクン批判。からあげクンに関しては自分も手を出さないけど、あの価格は「手軽感」に対する対価という意味合いが強いのではなかろうか。いわば「手軽さ」を売りにするというコンビニの語義を象徴するような商品なのだと思う。(しつこいようだけど、自分も買わないんだけど)からあげクンを否定すること、それはつまり「コンビニ利用そのもの」の否定に通底してますな。

 配信を聴いていたら某次郎屋氏が泣いていた。ねとらじを聴いていて、たまに泣いてる配信者にあたるけど、(うそ泣きみたいな茶番は別として)マイクの前で本気で泣ける人はすごいなと常々思う。笑かせたり泣かせたり、配信のもたらす感情の振り幅の大きさに改めて感心する。自分にはどっちも出来ないし、(もろもろの無力感、言いかえればいつもの「不能感」を自覚した上で)リスナーさんには「せいぜいラジオの前でにやにやしてくれれば御の字かな」くらいの気持ちで放送していたと記憶している。春先くらいだったか一度だけ、配信中にほとんど不随意的に目の縁に涙がたまった経験がある(だから涙に、聴取者すべてが理解出来るような大袈裟な理由はいらないという点は共感できる)けれど、泣いたままレスを読んだことはない。某次郎屋氏のように泣いたままレスと向き合い、リアクションしていくというのはやはり難しいと感じる。*1
 自分みたいなもんは、電波の向うがわにいる見ず知らずの人格を信用、信頼しすることが出来なければ、泣くことは難しいのではないかと感じる。日頃から某次郎屋氏の放送を聴いていると、こともなげに下らないことやら、ミもフタもないあれこれを連発される(そんで、それを聴いて自分は笑ってる)ので「へー、相手を笑らかすってこんなに簡単なことなのか」などと錯覚してしまうようなところがあるけれど、笑かすにせよ泣かすにせよ、やはり配信者のマイクの前での「無防備さ」みたいなところが大きく関わってくるのだろうか。安田謙一氏の名言「無防」という言葉をふと思い出す。ありのままの無防美、作為の無防美、防備したつもりの無防美、、さまざまな様態があり、表現全般において重要な問題だが、いわんやねとらじをや、と痛感する。
 配信中、涙が出てきた時。接続を切るか、接続を死守するか。
 もろもろの理由はあるにせよ、結局は最終的な決断が、話者としての資質そのものを大きく左右するのではなかろうか。いつもの事ですが、当たり前のことをさも偉そうに書いてスンマセンね。

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*1:それから、この前書こうとしてホッポリだしたねとらじの音の問題。具体的(数字的)な音質とトーク内容の中間くらいの音の問題の話でいえば、(近ごろは笑かされることが多かったので忘れていた)そもそもの某次郎屋氏のようなタイプ、空気を脱臼再構成するような「空間系トーク」自体の、涙やら湿潤な性質の感情との親和性の高さも、改めて思い知らされた。