誰にも向かわないどなり声


 気付けば金曜日。13日のアレらしいです。
 某D氏の○つらじ〜自板とウォームアップしつつ某タ氏のところへなだれ込む。前にもあったような個人的な週末のデジャヴ。AMラジオ風ねとらじとのことで全然AMラジオに馴染みのない(かといってFMにも馴染みがない)自分には新鮮だった。十万石饅頭のCMが神社のCMの前と後ろに立続けにかかる感じとか、実際どうなのか知らないくせに妙におかしかった。
 ねとらじと普通のラジオ、そもそも全く質の異なるものという理解はあるけど、それでもねとらじには「ラジオごっこ」という側面が少なからずあるだろう。その「ラジオごっこ」としてのねとらじがまた本家のラジオをパロディーにしてしまうという入れ子構造、本家ラジオをパロディー化することで己が則っている(ラジオという)形式そのものを(意識せずとも不可避的に)批判してしまうという自己言及性みたいなものが、刺激的かつ示唆的に思えた。ラジオにねとらじが従属する関係を嫌って、ねとらじならではの独自性を模索する放送は聞き慣れているけど、あえて自らすすんで(保守性、形式主義マンネリズムだとか安定感を優先する)AMラジオのコテコテ感をこだわって再現してしまうのには新鮮な印象を受けた。メタ・ラジオみたいなものがあるとしたら、某タ氏の「AMラジオ風ねとらじ」という(いい意味で)無駄に凝りまくったやり方も、その一つの方法なのではないだろうか。 本来不必要なはずのCMやらなにやらが導入され、体裁は本家のラジオに限り無く漸近していくんだけど、あくまでもラジオではない。それがかえって「ねとらじってなんだろうな?」と改めて考えさせる切り口を与えてくれたようにも感じた。 文学と文学的なもの、詩と詩的なもの、ラジオとラジオ的なものが、それぞれが似て非なるものという関係性をも想起させるような放送だっと思う。

 ぜんぜん話は変わるけれども、かのやんごとなき方の日記に「スラム」という言葉が出てきたのには、思わずビクっと反応してしまった。そんなしょうもないところでいちいちビクっと反応している自分がもはや悲しいのですけれど、そんな反省を待つ前に脊髄がビクっと反射してしまった。今の今まで「スラム」というものと「やんごとなき方」のことを同じ土俵で考えたことがなかったから、余計ビクっとしてしまったような気がする。異化作用というやつですね。こうもり傘とミシンが解剖台の上で出会ってビクっとして、次にうっとりしてしまったということです(あ、あと「こうもり傘」ってなんとなくやんごとなき方っぽい雰囲気がいたしますね)。過去に、ねとらじでのやんごとなき方の活動を評して「この世の汚穢汚濁が流れ着いた先に咲く一輪の花」などというふざけた言葉は発していたけど、あくまでモノの例えの域であるし。それから、やんごとなき方がお好きだとおっしゃってた「○ゃりんこチエ」ぐらいだろうか、、やんごとなき方の周囲で気付いている「スラム」を連想させる要素は。。 件の日記には、やんごとなき方という人を知る上でなにか重要な手がかりが隠されているのでは?と、ついつい何度も読みこんでしまった。
 それから「誰かからだれかへのどなり声」という表現も、何気ないけど妙にグッときましたね。山の写真に「やま」というタイトルがついていたり、「誰かからだれかへのどなり声」というのもそうだけど、なにか普段使わないせいで自分でも持ってるのを忘れてる感覚器をくすぐられるかのような感じがありますね。やんごとなき方の方言や、倒置法の多用だとか、口語的表現周辺のこだわりみたいなものには、こちらも心の準備があるんだけれど、「誰かからだれかへのどなり声」は反則だなあと思った。そう書かれると、逆に「誰にも向かないどなり声」みたいなものを想起させられるんですよ。そうなってくると深いですよね。決して「誰にも向かわないどなり声」。。キチガイかっていう。。深いですよね。深淵みたいなものを垣間見せられる思いです。


 それから某所で○スクトップ晒しが流行ってるみたいなので、前にそういう写真をアップした記憶があるのでリンク貼って済ませようと思ったんだけど、見つからなかった。。○○さんにも、この前指摘されたばかりだし、どっかに記事があるはずなんだけど、おかしいな。。 まあ○スクトップはモニタ焼け防止で真っ黒なのでつまらんし、PC周辺を撮影しました。
 (a)まどぎわ。この辺にいつもすみれ色の夜明けが来る感じですね。実際にはすみれ色なんかじゃなく、なんとなくだいだい色に光るだけです。どうせならすみれ色ならいいのにとつくづく思いますね。 (b)緊急排水システム。冷房をつけるとたまに水が落ちてきて下のレコードを直撃するので夏には不可欠です。めんどくさいので通年そのままです。つねに頭上にゴミ袋があるという風情も我ながら気に入っております。これには「汝傲る事勿れ」という自戒が込めてあります。まあ傲るようなアレもない生活なのですが、間接照明の薄明の中で現実を忘れないために。 (c)ごみ。めんどくさがりなので片付けません。だいたい手のとどくところになんでも放っぽります。 (d)扇風機。しめきりでたばこを吸うので換気のため、これも通年不可欠です。 (e)レコード。棚に収まらないものを袋に収納します。よく段ボールなどが好まれるようですが、棚の奥まったところを捜索する際、重くて移動しづらいので袋が好都合です。ただ板の間だとすべるので地滑りは免れません。むしろ始めから「地滑りするもの」としてつき合うのがコツのようです。

 そうこうしてるうちにすみれ色の朝。知の早朝バズーカ兼ノイズのさざなみサーファーことjk氏が登場。聴いていてまたいろいろ思いついたことがあるのだけれど。。いい加減クソ長いので日を改めます。骨子だけメモ書き。ラジオするのに構想書くのはまだしも、ブログ書くのにも骨子かよ!といい加減バカバカしくなってまいりました。。
 ゲシュタルト理論、意識と背景、図像の地と図の関係 → 琳派のフスマ絵、金の地のハレーション効果によるゲシュタルト(地と図の関係の)崩壊→ ハレーション効果と目眩。ねとらじにおけるカイヨワの遊びの4要素を考察した際、最後まで分らなかった(ねとらじの)「目眩」のヒントになるのでは? ねとらじを聴いていて局所的な「目眩」は頻繁に感じるが、ねとらじ配信共通かつ固有の要素として抜きだせない件