世界と私が関わりあうための「すみれ色の朝」


ほほど寝て昼前に起床。夕刻に骨の折れる外回り。それ以外だいたいモケーと過す。今日はなんだかすごく冷える。戸外からもどって念入りにウガイをする。今のような、風邪をひいたところで誰も困らないような立場に置かれてからのここ一年間というもの風邪とはまったく無縁な生活を送っている。皮肉だなと思う。
 ○○氏のラジオに関する連載。小出しにするってのは、やはり最後にどんでん返しがあるのだろうか?だとか、はたまた○○氏は今度○○○に挑戦したいとか話されていたが、本気でやるのかな?(自分的には本気でやって欲しいけれど)本気で取り組むのも○○氏の放送内のキャラと違う気もするし、そこはやはり放送内のキャラ優先というか、いつも通りの配信(リスナーの望む○○氏像)ありきになるのかな?だとか。。穿った見方ばかりになってしまう自分がどうにもアレだなあ、、ささくれてんな、渇いてんな、、などとぼそぼそ過すうちに気付けば下宿のしめ殺しの窓際に今日もやってくるすみれ色の朝。みなさま如何お過ごしでしょうか? みなさま方におかれましては「如何もクソもねえよ、こちとら社会人としての勤めを全うしてようやく見えてきた週末の岸辺だよ、このすみれ色キチガイ野郎が!」とのことと思います。どうもおはやうございます。

 今朝も冷えるなーと窓辺の凍てついたすみれ色をぼんやり眺めていると、jk先生がノイズのさざなみの向うからこんにちわ。「レヴィナス、生き埋めの恐怖」「ムーミンの女」などなど。今朝のお話だと「意識に言葉が従属する」ような捉えかただったけど、個人的には「意識、知覚の限界は言葉が規定する」というような考え方に寄ってしまう。(おそらくソシュールやらの記号論に則った考え方なんだろうけれど)連続する未分化な世界を分節化し切り取るのも言葉、「部屋に置かれた机の上のコップ」というふうに我々が世界を認識できるのも言葉が介在するからで、言葉を知らない犬、言葉を知らない赤んぼうの目に映る(感じるままの)世界は「ぼんやりと模糊とした未分化な風景」でしかない。よって、Aさんの知覚の限界はAさんの知る言葉の限界、Bさんの知覚の限界はBさんの知る言葉の限界、言葉に収まりきれない意識、感情というのは「言葉に収まりきれない意識、感情」と表明するほかない以上、「言葉にできるもの」と同等にものの数に入れるかどうか躊躇するところがある。巷でよく言われる「言葉に出来ない思い」なんてのはほとんど場合が単なる思考停止ですよね。
 こういうのは変なクセのようなものだと分ってるし、個人的には学生時代、視覚表現を専攻していた頃にそこいらへんのことを結構深刻に考えさせられたせいだと思う。やはりそれまでの初等教育の国語の(平等な教育機会のための効率化および教育者の能力的な要請による)授業のごくごく単純な論法「作者はこう思ったからこう書いた」などといったスリコミに対する反動が大きかったから「必ず意識に言葉が従属する」というような、さも当たり前のように世の中でまかり通っている考え方に、過剰に反発してしまう体質ができてしまったような気がする。「すみれ色の朝」と発する前に感情はない、標語化された「すみれ色の朝」から私は感情をもらうのだ。
 学生時代は「絵を描く」という行為と「いかに世界を認識するか」という問題が隣り合わせだったからこそ、(絵を描く上で)必要に迫られる形で形而上的なあれこれにもシビアに向き合えたと思うのだ。学校を卒業し創作から離れてからは自身そんなことを真面目に考える機会もすっかりなくなってしまった。だからこそjk氏には、たとえば「レヴィナスの生き埋めの恐怖」に則ると「ねとらじはこういうふうに出来る」てな感じにやっていただけると、ねとらじを聴いてるすべての人が問題を共有できて面白いのにと思う。それが無理なら「レヴィナスの生き埋めの恐怖」を踏まえてダンプを転がすとこうなるとか、「レヴィナスの生き埋めの恐怖」を踏まえてビールを飲むとこうなるとか、「レヴィナスの生き埋めの恐怖」を踏まえてovo女史とデイトするとこうなるだとか、そういうふうにやってくれると聴いている方ももっと身が入るのになあ。。なんて思うのである。



Download
amefuri gogo / tamori ('81) 〜 I wont you / marvin gaye ('76)

 また貼る音源を用意しようと、先日お邪魔したねとらじのお寿司屋にて某大将が言及されていた柄本明のワッツゴーイノンのカバーと、やはり大将ご贔屓のタモリのヴォーカリストとしてのメローサイドが噴出した佳曲「雨降り午後」を繋げようとチョメチョメしてたら、その大将の放送が始まってもんどりうった。jkふうに申せばシンクロニシティなんてところだろうか。以前にも音源を用意してる最中にちょうどそれ関係の話者の配信が始まるということがちょいちょいあった気がするのだが、不思議だなと思う。以前、雨の日放送でもかけた記憶のあるタモリの「雨降り午後」だが、前々から「何かの曲に似てるなー」と思ってたんだが、これだ!というのが思いつかなくてどうも気持ち悪い。マーヴィン・ゲイとか(奇しくも大将も昨日の放送でもかけておられた)リオン・ウエアあたりのエロいソウル曲な気がするのだけれど。。 いろいろ考え直した結果、ワッツゴーイン柄本はやめにしてマーヴィン芸のおまえどこ中?アイウォン中を繋いでみた。なんとなく、これのような気もするんだが、、どうも決め手に欠ける。。 それから「ご自由にどうぞ」とのご厚意に甘えさせていただき、毎回あたり前のように使わせていただいているやんごとなき方の番組名コールですが、いつもありがとうございます。聴き飽きていた感もあってどこか輪郭がぼやけつつあったマーヴィン芸のアイウォン中なのだが、このたび、やんごとなき方のお声が導入されることで、また再び自分の中でピントが合ったような、新しい息吹にアイウォン中が再生したような気持ちです。そして人知れないすみれ色の朝に、しめやかにやんごとなき方に捧げたいと思います。