黒い虹


 実家からとどいたメールに気分が落ち込んだり、ネット環境の再編作業などで鬼ともめたりしつつ、夜半すぎから雨がぼそぼそ降り始める。だいたいぼそぼそしてすごす。だいたい書くことない感じですけれども書いてます。ですから、なにか読みたいのだけれど読むものがない!という貴方様だけに読んでいただければ、それでもう、私の魂の救済者であらせられますところの貴方様とこの私めはハッとしてグーなのではないかと、かように存じ上げる次第なのです。

 件のjkの仙人新聞をアンテナ登録するかどうするかで昨日も少し迷っていたが未だにふんぎりがつかない。一言で言うとおっかねえからだ。私は人様のねとらじを聴いたり人様のブログを読んだりしてても、まず「おっかねえ」というような感情を持つことはないのだけれど、仙人新聞はおっかねえところがある。なんだか飲込まれてしまいそうな雰囲気というか。私も我が強い性分といいますか事なかれ主義といいますか、普段から常に人様のラジオも日記も「あーあっちでなんかやってなー」というような適当な距離をもって触れさせていただいておりますし、仙人新聞についても私的にはそういうようなつもりなのですけれども、なんだか「いつのまにか丸め込まれてしまいそう、ひゃはー」というような気配を感じるのである。そんなことを考えつつ、ぼんやりとまた見物にいって過去放送(というか今日の収録放送なのかな?)をぼんやりと聴いていた。今日心に残った一言はなんといっても、無精髭をして「黒い虹」だろうか。本当にもう、なぜこうもjkの言葉には漏れなく美と詩性が宿るのだろうか。なにを美と呼ぶか、なにを知と呼ぶか、それは人それぞれだし、それこそ皆が同じ方向を向くのは気持ち悪いと思うのだけれど、jkが語り書く内容を簡単に「知」とか真理とか呼んでしまうことの危うさと同じくらい、いや「真理に触れよう知に近づこう」というjkの並外れた「熱望と情熱」そのものこそが「知」と呼ばれるべきものなのかもしれない。。などとふと感じてしまうのである。厳密には「知的」な放送と呼ぶべきか。知と知的も、美と美的も、詩と詩的も、それぞれ似て非なるものという厳密な文法に則れば問題なさそうな気もする。
 それから、○○さんが山に登った話を聴いて「ああ、○○さんやってるな感」を受け取りつつ、日記と放送から立体的に浮かび上がる紅いもみじの感触を確かめつつ、その後は「あー聴くものがねえ私の気分がこんなだから、、」などとぼそぼそして過した。もみじを漢字で書くと「紅葉」、紅葉(こうよう)と同じじゃねえか、、なにこれ日本語ってほんとイイカゲンだよな使えねえなまったく!、、あ、いい加減だからこれでもいいのか、いい塩梅に加減した結果「紅葉=紅葉」なのか?いよいよなんだか分らなくなってきたなめんどくせえ、などと思いつつ夜更ける。すみれ色の朝まであと少し。しかしアレですね。やれモミジだスミレだ、季節感もクソもない色ばかり派手でうるさい日記ですねここは、ああ俺の日記だった。書いてる人のいい加減が丸出し日記ですね結局。

 ちかごろは枕頭にてH.P.ラヴクラフト全集の文庫本などぼそぼそ読み返しております。そのスジにはおなじみの、むかーしのゴシックホラーみたいなやつなんですけれども、あんま怖くないのがミソですね。怖さより文章から伝わってくるラヴやんの誠実というか実直なお人柄の方が気になる感じといいますか。ねとらじ聴いてても本を読んでても、気になるところは結局一緒なんですね。つまんない男ですね。

Download perspective / YMO ('83)

 手前味噌ながら、昨日の貼った音源を聴き返してたら自分でハマってしまい、またもjk先生の声をs本先生の唄にかぶせてみました。声質も似てるけども、人間的にも似てるとこがあったりするのかな。(特に若い時の)s本先生はすごくナルシストな感じですが、すぐ脱ぎ出すjk先生もかなりやるなあと思うとります。この「遠近法」という曲はすごく好きな曲で、前にラジオでその辺の思い出をしゃべった記憶もありますが、やはり秋に似合うしみじみしたところがあるというか、聴いてるこちらの気分に合わせて音の見せる表情が刻々とうつろう趣き深さみたいなものを感じます。