非日常としてのナルト


 午后すぎから城西方面にポタリング。けっこういい陽気。11月だけどこんなもんなのかな。ふわふわーとうろつき廻る。日が落ちて里の民生食堂にてエサ的なものを食って帰投。戦争ゲームから離れられたりタバコの本数が減ったり、多少は有意義だったのではなかろうか。テレビを観てその後ねとらじを聴いて夜がふける。またもねとらじに対する話者の考え方あれこれを聴かせていただく。今はなんだかすごく眠い。外はすみれ色の朝です。ねとらじからはお久しぶり、○○たろう先生のお声。マーヴェラス。。ファンタスティック。。すみれ色の朝でございます。

 昨日の日記の「ロマン」の件に関して、さっそく「ラーメンに浮かぶナルト」という反応をいただく。その場でピンときた。確かにラーメンに浮かぶナルトの存在感って、いろいろある具材のなかでも断トツにロマンを感じる。あのとってつけたような素頓狂な形状といい、食われる前からすでに人を食ったかのような桃色のうずまき模様といい、軽く浮き世離れしてるというか、かたくなに実用性を拒否し続けるスタンス、あっても無くても困らない微妙ーな感じ。さしずめ「スープに浮かぶ非日常」「ねりもの神秘主義」とでも評したくなる佇まいだなあと。となると、隣に寝ている女を迷わず襲うのが「店の主人こだわりのチャーシュー」だとしたら、なんも手をかけないのが「ナルト」という感じだろうか? おれはなんでこの例えにあくまでこだわってるのか、もうすでに自分でも意味不明なのですけれども。やはりどっか自分の中で、生命の宿命(食う寝る)に逆らう行為全般を「ロマン」と呼びたいだとか、こだわりがあるみたい。近道より寄り道するのがロマンだとか。歳を食うのは嫌ですね、ああ石頭が止まらない。

 他人の「こういうねとらじがよい」みたいな話を聴いてると、そこで「おもしろいねとらじが、よいねとらじ」という暗黙の前提を嗅ぎとってしまうのだけれど、もちろん「おもしろくない」より「おもしろい」に越したことはない、ただ自分が実際に聴くねとらじを選ぶ時「おもしろいかどうか」って、実はあんまり判断基準にはなってないのだと(人の話を聴いてて)気付かされる。結局「おもしろい」かどうか、そこにあんまり意識がないからこそ、自分のやってたねとらじもおもしろくならなかったんだろうなと、今さらながらかえりみたりする。

 そういえば思い出したのでついでに備忘しとくが、少し前に、かの若大将もご贔屓のkjくんの自板放送を聴いてる時に、「kjくんの話はよく分らない。もっと自分の言葉で話してみたら?」という人様のレスがあって、それを見て結構ハッとさせられた記憶がある。自分もkjくんの話を聴いている時に感じていたモヤモヤの正体を一言で抉られたのと、自分も「はたして自分の言葉で話せていただろうか?」という反省と。。。 kjくんがあえて自分の言葉でしゃべらない理由にも思い当たるフシはある。政治だの思想だのの話をする時に、日常的な平易な言葉に砕いてしゃべると話が回りくどく煩雑になるし、えらい人の理論を借りてしゃべることで自身の主張に普遍性、客観性をなるべく持たせたいという思いがあったのだと察する。つまり、聴く方(自分も含めて)としてはラジオを通して、しゃべっているkjくんという等身大の人間にもっと触れたいとか、一人の人間の肉声に興味があるのだけれど、しゃべっているkjくんが電波の向こうに想定する「こういう人に聴いて欲しい」というリスナー像は、もろもろの政治的関心やら主義思想のはっきりしたタイプで、そういう層に向かってがっぷりよつで対峙したいというkjくんの放送中の潜在意識が、kjくんという人間の個人的な声の肉感より、話に包含される主義主張の普遍性客観性を補強することを優先するような話しぶりにさせてしまうのではなかろうか。