大将のすし屋にデンワ出演

 12時前に寝て未明に起きるとかいうじじい的生活リズム。
 ぼんやりとjkの放送を聴いていた。「狼が来た!なんてウソより、ばあさんがホッピングやりながらバナナ食ってるとかいうウソの方がよっぽど悪質」「カフェオレ詐欺」「小惑星のような目くそを振り払ったら壁にハート型のクレーターが出来てカルデラ湖になった」だの、あいかわらずおかしい。昔は、哲学漫談とクレージートークがごっちゃに混淆してて、気が抜けないような雰囲気があったように思うけど、気のせいだろうか? それとも聴いてるこっちが慣れてきただけだろうか? 一時期バッファがひどくて聴けない時期があったけれどもそれも昨今は解決したようで、ひさびさに聴くjkはやっぱり面白いなあと思った。ねとらじにはいろんな話者がいるけれど、やはりjkは特殊だなと思う。他にこういうふうにしゃべる(ことの出来る)話者を自分は知らない。。放送を聴きながら、またあれこれぼんやりと思いめぐらせた。
 たとえば私が尊敬する話者。師匠(ああああ氏)ややんごとなき方のようなしゃべりかたは、真似しようと思っても絶対出来ない壁のようなものさえ感じていて、師匠ややんごとなき方のお話は、実際に発せられる言葉以外の部分、行間や沈黙、「話術の脱臼部分」からさえにじみ出す空気、温度、気配のようなものに、濃密で重大な意味が含まれているように思われるからで、そんなもの一朝一夕には身につかない、大袈裟に言えば「自分みたいなものは生まれたところからやり直さない限り」とさえ思っている。
 ひるがえってjkの話術というのは、(大雑把に捉えると)純粋にそして徹底的に、言葉として発せられる部分だけで成立しているように感じる。言葉の音や熱、静動に依拠せず、ばたばたしないで淡々と一定のリズムで澱みなく切れ目なくしゃべるという技術にはものすごいものを感じるが、そういった話術はすべて「純粋にしゃべっている内容をスムーズに聴取者に受容せしむるため」に鍛え、用意されたもので、あくまでも音にする言葉の内容と意味だけで勝負するのだというjkの気概にも感じ取れる。これは(出来るなら)真似したいなとか、(むずかしくても)目指してみたいところだなと思わせる。
 実際、そういった話術に支えられたjkの放送というのはたいへんな結果を示していて、放送中絶えることなく高密度高比重な意味を高速で聴取者の脳に打ち込んでくる(哲学漫談部分)。そうかと思うと、それと地続きのリズムとテンポで脱臼や自己解体を織り交ぜてくる(クレージートーク部分)。そしてjkは今日も都市の解体現場へとダンプで疾走する。都市の破壊と再生の現場に関わり、己の放送内では言葉の破壊と再生を不断にくり返す。このマクロとミクロの対照関係もjkの言うところのホログラム理論というやつである(うそ)。つねにjkは己を更新する。つねにjkは新鮮でありつづける。
 それから、もう一つjkのすごいところをあげるなら、他の放送にはない、放送中のある種独特な集中力で、集中力の充満がある臨界を超えると「放送主がほとんど自分(放送主)に向けてしゃべっている」ような感覚さえ抱かせるという点である。これについては良いか悪いか聴取者によって意見は様々なのであろうが、自分としては積極的に受け入れていきたいjk放送の驚異的な性質だと思っている。それは聴いていてなにか得体の知れない感情を呼び覚まし、ほとんど感動的でさえある。
(ついでに過去放送「jk組曲」も再うpした。→http://d.hatena.ne.jp/mahone/20090907

 それからオガーさんの東京ラジオも拝聴。今回も「オガーさんやってるな」という手応えをしっかり感じとる。こういう言い方をすると内容は関係ないみたいで甚だ失礼な気もするのだが、誰のどんな放送を聴いても「○○さん、やってるな」というふうに感じてるわけではないのだ。オガーさんのラジオというのは、なんか「やってる感」がするのだ。「やってる感」であり、「あーだこーだあるけどなんとかやってるよヤレヤレ」という「生きてる感」みたいなものでもある。
 オガーさんは酒を呑まないというのを聴いて、なるほどなと思う。リセットがないまま、アレな現実をズルズルと切れ目なく生きてく感じ。自分にも分る気がする。放送内で頻出した人物が気になってmixiまで見に行く。そこでレギュラーの○じめちゃんのアカウントを見つけたので気になってついつい見てみると、しゃべってるのとはまた全然イメージの違う日記を書かれていて興味深かった。
 
 午後遅くから夕方にかけて、久しぶりに大将あらため光D氏のラジオを聴く。レス参加するのもずいぶん久方ぶりな気がする。まもなくそこに某タさんが凸られ、なんとその某タさんを介して、うまのほねも電話によるラジオ出演という、思ってもみなかった機会をいただく。またまた緊張と興奮で慌て取り乱す。取り乱しまくる。ラジオでの聴取と電話による通話のタイムラグがあったりして、うまくしゃべれなくてとても歯がゆかったり反省したりする。まあタイムラグがなかったとしても、緊張でおぼつかなかったろうけれども。電話による出演を終えて電話の通話記録をみると15分。緊張で時間の感覚がまったくなかった。濃密な15分だったなあと思う。ねとらじ出来なくてさみしいなあと思ってたところ、改めてありがとうございます。


 あとで放送の録音を聴き返すと、大将から「やんごとなき方に対面した印象」を聞かれているのに、自分は「某タさんに会った印象」を必死で答えていた。。うーーん、むずかしいもんだなと思う。やんごとなき方に実際お会いした印象は、先日の日記に書いたとおりですよ。都会に咲く一輪の花。素足にはいた青い沓は、あたくしの夜明けにいつも咲くすみれの花だったのですよ。改めてやんごとなき方のトータル感を花で例えるなら「はこべ」っぽいかなと、いま急に思いつきました。そしてどんな花か画像検索かけました。

 大将と某タさんの通話放送を聴くのは2度か3度目なんだけれども、今回改めて冷静に聴いてみると、低いトーンでつぶやくように語る大将の言葉が体育会系の精神に貫かれていて、逆に、快活な調子で躍動的に語る(ご本人も日頃から「あくまでラジオ用」と補足しているが)某タさんの話がアンチ体育会系っぽいのが、なんだか倒錯してて面白いなあとか、やはり、猥談を楽しそうに語れるのはねとらじDJとして、ひいては人間として実にキャッチーだよなあとか、いろいろ考えさせられる点が多かった。 
 自分も「妄想」については幼少期からひとかたならぬ思いがあるので、大将がよく話題にされる「妄想」のことにもあれこれ考えさせられる。大将の場合、肉欲の一定の実現や成功体験があるにも関わらずそれでもなお性的妄想を育み続ける点に矛盾を感じるし、逆にそこが興味深くもある。一般の性的妄想の必要性とは成就しない愛や性的抑圧という前提があるわけで、肉欲が実現されていくにしたがい妄想もその温床を失うはずなのだが、、そうなると大将の妄想は、一般の妄想とはまたひと味違う気がするのである。
 たとえば自分が理想とする「妄想」とは、ひたすら芸術やらねとらじやら、(女のけつを追っかけるという)生命の宿命から逸脱するためのものであって、最初は、成就しない愛欲の代替物として生まれた「妄想」が、愛欲というそもそもの目的を離れて全く別の(肉欲とは無関係な)活動の原動力になったりするところに可能性を感じるのだ。妄想がいつまでたっても愛欲の代替物、従属物のままで、それでも「妄想」は「妄想」であり続けられるのか? それでは「妄想」は欲望解消のための単なる手段のままなのではないだろうか? 昨今の世の「妄想」の大安売り、みうらじゅんブレーク以降の「妄想の商品化」には疑問を禁じ得ない。みうらじゅんは好きなんですけれども。。

 だとか、あーだこーだ書いてきたら、またねとらじの話だらけになったしクソ長いので反省している。本当は朝書いた分だけのはずだったんだけど、夕方に予想外の一大イベントがあったのでついつい。それから、やはり大将の話に出てきた「ロマン」についても書きたいことがあるのだけれど、さすがにアレなのでまた日を改めます。
 
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 今日のBGMも、秋に聴きたい私的クラシック、ジャニ・デュボッキ。名前がおもしろいアーティストは覚えやすくていいなあと思います。