ねとらじできないので

 終日ぼんやりすごす。
 しめ殺しのカーテンを透かして入ってくる戸外の光の刻々とうつろうさまを感じながら、なんかそとは明るいみたいだけど今日はやけに冷えるなあなどと、だいたい凍えながらモニタの中の戦争をぼんやり眺めてすごす。ラジオしたいなあというむらむらが頻繁にやってくる。なんとなーくおんがくをかけて、なんとなーくしゃべりてえな、と思う。もうどのくらいやってないか忘れたけど、日があくとますますヘタクソになりそうだなと思う。もともとヘタクソだからあんまり変わらないだろうけど、なんつうか、久々にやると大抵いつも「やり方」みたいなのが分らなくなっている感じがする。「やり方」なんか意識しない方がいいんだろうけれど、とっさになにも出てこない人だから、いつもの「やり方」みたいなのに頼ってしまうのはしょうがない。「やり方」っつうか知らないうちに出来てる自分の中での「段取り」みたいなものにすぐ頼る。
 そんでまた気がつくと日記を書いてんなおれはと思う。日記つうか壁の落書きみたいなもんだけども。ラジオできないので吐き出すように書く。ちかごろ頻繁に日記に音源を貼るのも、ラジオでおんがくをかけれないからだと思う。日記になんか書いたり、おんがくを貼ったりするのも、ラジオならいっぺんにできる。そんでまた、ああやっぱラジオやりてえなと思う。でもラジオで出てきてしゃべるのはたいへんだ。書くのならいろんなやり方を試してゆっくりより良い(と思われる)方法を探れるけど、しゃべるのはその場で一発でなんとかしなきゃならないので、ほんとにたいへんだなと思う。「一発でなんとかする」っていうのもよく分らないんだけど、なんとなくうまい人とかチャーミングな話者は、それぞれのやり方で、一発でどうにかしてる感じがする。どうにかしてなくても「どうにかできなかった失敗の仕方」が絶妙だなと思う。
 そういえば会合でも話に出たことだけど、話者が書くものを読むのは面白いなと思う。ある対象を、語る時のやり方、書く時のやり方、それぞれが見えると、その人(のやり方)が立体的に見えてくる感じがしておもしろいなと思う。「書けないから(方法を選ぶ余地なく)しゃべってる」っていう人の話し方は、それはそれで聞いていてなんとなく分る気もする。不思議だなと思う。
 それから、なんで「他人が放送でねとらじのことをしゃべってると耳がいってしまうのか」ということについて、それは「自分もねとらじのことが気になるから」だとずっと思っていたけど、実は他に理由があって、いろんな人が、いろんな来歴を経てねとらじというところに来て、いろんな方法でいろんな対象をしゃべってるんだけど、(表現する方法としてねとらじを選んでいる以上)「ねとらじのことを語る時だけは平等」で、その人のしゃべり方、考え方、やり方が、すごく透明に聴き手に伝わってくるからなのだと、会合の時にしゃべっていて気付かされた。忘れそうなので備忘しとこうと思う。






Download Lihue / Nohelani Cypriano ('77)

私的クラシック。ノヘラニ・シプリアノの「リヒュー」。
名前がおもしろいアーティストは覚えやすくていいなあと思います。