バーキン紀行



 食欲の秋、バーキン紀行の秋ということで、ついに某タ氏そしてかのやんごとなき方にお会いすべくバーキンに赴いた。エルメスでももちろんジェーンでもない、下町のバーキンといえばバーガーキングなのである。はばかることなく「バーガーの王」を名乗るファーストフードという巷間の噂にはつねづね触れてきたが、恥ずかしながら私自身バーキン初体験であり、また、ねとらじの話者のお方にお会いするのも初めてなのである。ああ緊張でおなかが痛い。台風一過きもちよく秋晴れた午后五時新宿。ああそれなのに私は緊張でおなかが痛い。そそりたつなんちゃら学園の面妖なるビルヂングが臨めるクソアーバンな某所地下に目指すバーキンは在った。(画像左より1枚目)手前にLOVEのモニュメント、そして愛の裏返し、さかしまの恋。わがままを承知で申せば、ここでやんごとなき方を撮影させていただきたかった(頓死)。こんなところにあったのかバーキンよ。地上はアッパー&ハイブロウなオフィス街だが下におりれば嗚呼そこには下町のバーキン。ようこそバーキンへ。まごうことなきここがバーキン。暗がりに妖しく浮かびあがるバーキンの丸い発光が誇らしげに主張してやまない(画像2)。ああついにバーキンに来たんだ。私はこれから数分後、やんごとなき方そして某タ氏の面前で初めてあのバーキンを食うのだ。じわじわと実感が増してゆく。ああ緊張でおなかが痛い。。。(記憶が飛ぶ)。。。そして今(28日am3:00)、気がつけば私はいつもと変わらない暗くうすぼけた下宿の部屋でタバコを吸ってぼんやりしていた。興奮と感激と様々な感情がないまぜに渦巻き過ぎ去った余韻とけだるい疲労に酔いしれながら。。ご馳走に与ったバーキンはうまかった(画像3)。ファーストフードとしての「ハンバーガー」というものに獏と抱いてた認識を改めさせるような、そんな確かな手ごたえと歯ごたえを残してそれは私の胃袋に充実感と共にずっしりと収まった。もっさりとした、どこか鈍重で一本調子を想像させる見た目の印象とは裏腹に、量感溢れるハンバーグ本体とざっくりとした生野菜の鮮やかな食感がスリリングに鬩ぎあい「いつだって本物のハンバーガーとは真剣勝負なのだ」とも言わんばかりに、口中でのっぴきならないコントラストを描いたように思えた。なにかそこに、ごまかしのないものを感じた。(そして、奢ってもらってるのにエラそうなこと書いてる自分が急に恥ずかしくなった。ごちそうさまでした。)

 某タ氏を前にねとらじの話をさせていただく、(その時は意識はないのだけれど、今ふりかえると)どこか思ってることを好き勝手発するのを躊躇してたような自分を省みる。。たとえば「何故ねとらじを聴くのか?」という問に対して、「普通のラジオでは聴けない素人の肉声を聴きたい」という多くのねとらじリスナーが抱える紋切型な言説があるが、そういうことひとつとってみても、そもそも私が思う「素人の肉声」というのはあくまでも「素人である私が考える素人の肉声」であって、(冷静かつ客観的に捉えなおすなら)「素人の肉声」というのは、素人側ではないプロの立場(某タ氏)からでないと本当は見えないのかもしれない。。だとか、いろいろとそういう自分の中にある細かなわだかまりや逡巡が、無意識に、自分自身のそこ(会合現場)でのひらめきや、感じて言葉にしようとする瞬発を、遮り、縛りつけていたのかも知れない。。 その某タ氏が挑んだハンバーグ七枚重ねという無茶なしろもの(画像4)。「肉をパンが挟む」というハンバーガーの本来的な形状(もしくは我々が心に抱くハンバーグのイデアとも言うべき理想像)を無視した異形を前に、さっそく撮影大会に突入させていただく。もうほとんど肉の塔である。現代に甦るハンバーグによるバベルの塔バーキンを舞台に繰広げられるハンバーグの神への人類の唾はき行為だ。実際に出るのはよだれなのだが。


 そしてかのやんごとなき方。。その爆発的な可憐なおぜうさんっぷりに、私は完膚なきまでにノックアウトされた。バーキンで例のブツを撮影している最中も、使い慣れた我が戦友(コンデジ)を構える手は終始緊張からくる痙攣にさいなまれた。以前よく放送内にてやんごとなき方を紹介させていただく際におきまりだった「この世の汚穢汚濁が流れ着いた先に咲く一輪の花」という定型化した文言があったが、「この世の汚穢汚濁」とはすなわちねとらじ放送における掲示板のレス、人の本性やむき出しの愛憎といったものの集積としてのレス群を例えたものだが、現場に降臨したやんごとなき方の可憐な姿はまさに、渇いた都会の景色の中に耐えて咲く一輪の花、画竜点睛の睛(ひとみ)のような存在感をはなっておられた。
 白い素足に履いたあの青い沓は、私の夜明けに咲くすみれの花の正体なのだった。 青沓の スリヰプウオクや すみれいろ(馬骨)
 明治44年創刊の雑誌「青鞜」は、当時西欧で先進的な女性がはいていた青い靴下(ブルー・ストッキング)に由来するとのことだが、さしずめあの日のやんごとなき方は現代に甦った平塚らいてうだろうか。そのやんごとなき方の言葉の、妙な説得力はなんなのか? なにか一言で現場の空気を変える、「人間そのものがまとう空気感」とかいう消極的な表現では足りない圧倒的な存在感。たとえそれがなにか理解し難い、おぼつかないような小声の囁きであっても。そこで心あるリスナーが感得せしむるのは「ん? こいつなにを言ってるのだろう?」ではなく「この方は、未だ私の理解がとどかない、なにか正しいことを言っているのだ」という印象なのだ。そのことについて、某タ氏とともに熱心に言葉を重ねた。
 会合でのやんごとなき方のお話の中で、私が特に印象に残ったのは「聴取者を尊敬する」という基本姿勢だった。私もつねにそういった心構えをもって放送してきたつもりだが、やんごとなき方のお話を伺った後では、私の聴取者への配慮など、そんなのは所詮その場しのぎであり、自らの体裁を保ちたいという利己心からくる所詮付け焼き刃なのだと反省させられた。。



Download I am an animal / jajaja ('82)

 最後にまた音源を貼りたいと思う。これは会合前夜の謎の作業で、いつもの音源と雰囲気が違うからといって、会合で得たやんごとなき方の新たな印象を反映したものではございません。あしからず。
 「ドイツのESG」とも評されるja ja jaという80年代初頭のNDWバンドの曲に、やんごとなき方のお声をかぶせたもの。そもそもESGは「脱臼ファンク」としてそのスジには広く知られる米の黒人女性三人組ユニットだが、これは「エメラルド・サファイア・ゴールド」の略だそうで非常に色彩豊かな命名と好ましく思っている。そういえば、かつて「ゴールデンドーン(黄金の夜明け)」なる妖しい秘密結社的性格の宗教団体もあったが、jajajaはジャケ写が「すみれ色の夜明け」にも見えるシングル盤を貼っておきたいと思う。