去勢

 午后おそくから杉並方面にチャリで散歩。
 あてどもなく彷徨う。秋の陽射しにまどろむような路地と町並み。なんちゃらはつるべ落としとはよく言ったもので、刻々と傾く西日に、街の表情も劇的に変化する。某スジには有名な成宗の白山神社の前を通りかかると、向いにあった渋い米屋が跡形もなく消えていた。まったくえげつないことをしやがるものだ。開発断固反対。田舎の風情を色濃く残した善福寺川沿いの風景も、少しずつ失われていってしまうようで寂しい。
 むかしよく散歩した公団住宅が見たくなりうろうろ探す。うろおぼえなので、何度来ても場所がおぼつかないのだが、なんとか見つかる。良かった、こちらはまだ壊されてなかった。。有名な阿佐ヶ谷住宅テラスハウスなんぞを思わせる、時代からとり残されたような瀟洒な公団風住宅。隣接する荒廃しきった公園もとても美しい。団地マニアにも巨大な高層建築を好む方やら、ボロいのを好む方やらといろいろだが、とくに寂れた公団っぽいのを好むスジにはグっとくるに違いない。そのあと、高円寺駅のほうにもどり、品のないものをドカ喰いして帰投。






 メールホームより「ラジオで聴きたいのは赤裸々な本音の方」とのご意見いただく(いつもありがとうございます。毎回楽しく拝見いたしております)。たしかに昨日の日記などアホみたいに好き勝手に書き散らかしているけど、(たぶん誰にでもある)真夜中の気分にありがちな例のアレですので、ああいうのをラジオで出てきてそのままぶつけるのは、自分のような器の人間にはなかなか至難かと思われる。なにか思っても、いざ口にしようとする前にリミッターがかかってしまう、自分のような著しく社会性を欠いた人間でもなお。言わば社会に去勢された馬の骨、という意味でもradio impotentsなのだ。(ちょうどさっきまで、隣人が人から借りてきた最強昆虫決定戦みたいな内容のDVDを鑑賞していたんだけど、そこにリオックという巨大なコオロギみたいな肉食昆虫が出てきて、毒サソリやら大ムカデやらタランチュラやらを次々と頭から貪り喰っていて(戦う、というより補食)、そいつはまさに自然の生命力というか残忍さの象徴のようだった。そういうものを観てもやはり現代社会に去勢されたおのれを自覚するのだ。)
 この「不能感」とか「無能感」みたいなテーマが、ここ数年ずっと自分の心を捕らえてはなさない、ということは以前にも書いたけれど、ラジオをするようになっても、やはり大きなテーマとして不能感というのが絶えず心の中を占めている。それは、なにをしようがどう足掻こうがどうにもならんという諦念じみた心境でもあるし、逆に「不能ということはいったいなにか?」みたいなことを考え続けることがライフワークというか、何をしょうとするときも、いちいち、とっかかりというか原動力みたいなものになっている気もする。