いちよみのブルース

 ふと思いたって、また工作物にとりかかる。
 作業的には、ちょうどラジオの構想とか下準備してるような内容。戦争ゲームやってるより、よっぽど有意義と思うんだけど、たぶん端から見てたら大差ないんだろうなと思う。
 覚えてる範囲で、過去にやんごとなき方をイメージして選曲した素材をかき集める。曲間にラジオ用ジングルなどをはさみこみ、あーだこーだひとしきり。そうして、あらためてふりかえってみると、あるひとりの人物をイメージした選曲といっても、ほとんど曲の印象はばらばらなのだ。もちろん、やんごとなき方という人間自体の、つかみ切れない多面性や、豊かで重層的なイメージに起因するところもあると思うし、わたくし自身、やんごとなき方、やんごとなき方と、一方的に入れこんで、そのことばかりを考えつづけた結果、頭の中だけで勝手にイメージが独り歩きしているのもあるのだろう。
 思えば、初めてやんごとなき方の放送と出会ったころは、「一読みのブルース」などと勝手に名付けて、独りで納得していた。やんごとなき方の魅力の根幹は、ブルース(のようなもの)と勝手に思っていた。
 ブルース(ブルース感)てのもよく分らないアレなんだけど、できるだけ広義に(ぼんやりと大雑把に)捉えたいと思っている。たとえば、ポルトガル語にサウダーヂなんて言葉があるが、これは「郷愁」だとか無理矢理日本語に訳されたりしている、ある名状し難い感情というか、ムードというか、雰囲気を表している。日本にも「幽玄」だの「もののあはれ」などといった、他の言語になかなか置き換え難いムードを示す言葉がある。
 黒人にとってのブルース、ブラジル人にとってのサウダーヂ、日本人にとってのもののあはれ、それぞれが差ししめす意味あい、内容の違いこそあれ、さまざまな歴史的背景や、それぞれの風土に根ざした、民族固有の感情の様式、あり呈なのだと思う。
 話が脱線したけど、初めてやんごとなき方の放送と出会った時、私がほとんど直感で感じたのは、なにかブルースのようなものだった。
 いくら18歳と主張しようが、なにか浮き世離れしたぶち切れたテンションでラジオの音の空間を自由自在に飛び回ろうが、それとは関係なく、ラジオが伝えるムードはごつごつした手ごたえを増し、独特の重量感をもって下へ下へ深く沈みこみ、気付けば放送は高密度高質量の重力空間を形成し、やんごとなき方が声を発し、言葉を重ねれば重ねるほど、それらは、ますます大地に深く深く縛り付けられていくように感じられた。
 そのむかし、西欧の舞踊が大地(肉体)からの解放、飛翔と上昇性を目指すのに反発し、土方某が提唱した暗黒舞踏なるものがあったが、やんごとなき方の声と話術は、そういうものに通じる、大地にしっかりと両足で踏ん張るような、由来の知れない土着性を最初から備えていた。。 
 両足で踏ん張り、息を切らし、ラジオの空間にしっかりと自立するやんごとなき方の声は、一人の人間がラジオに出てきてしゃべるということの(ルーチン化し、ともすれば忘れがちな)本来的な困難さ、虚像のようなレスの集積と対峙し電気の向こうの人格を信じるということの、そもそもの困難さ、ラジオの空間にしっかりと存在する重力のようなものの手ごたえを再確認させてくれる。電気の向うに確かに存在するぬくもりを伝えてくれる、いみじくもその話者の名をば、で○○ア○○。
 いま現在、自分が思う、やんごとなき方という人のイメージ、放送のチャームとはなんなのだろうか?と、、、自分の好き勝手が生み出したプレイリストが、改めて私に再考をつきつける。