デンワ




スカイプやなんやっていうこのご時世に、かのまれびととデンワでお話させていただいた。
そもそもスカイプとデンワじゃ言葉の響きからして段違いなのである。「流行りのお笑いが二年遅れで自身の感覚に浸透する」とおっしゃられる、かのオガーさんでさえ、スカイプ通話でラジオされているのだ。そんな世の趨勢に逆らってデンワ。ねとらじしてるやつらがだいたい最低限備えてる環境さえままならない、あたくしはデンワ。昭和の忘れ形見さながらのうまのほねなのである。 / デンワをとると、電車の音や街の喧噪に混じって、まれびとのお声がとどいてきた。ラジオと同じあの声だ。堰をきってあふれ出すように感動がじわじわと四肢につたわり、脳味噌がズキズキする。身体の感覚が失われて麻痺している。指先が痺れる。緊張していたので、何を話したのか覚えていない。気がつくと40分近い時間が流れていた。申し訳ない、、とデンワを切って思う。 / まれびとの何が素晴らしいか一言で説明するのは難しいが、大雑把に言って「優しさ」ということなのではないだろうか? リスナーの前で酔っぱらい曝け出すのも優しさ。リスナーに説教するのも優しさ。リスナーに切れるのも優しさ。電波の向うの姿の見えない、実体のない、幻のようなレスの集積、それに向き合い、腹を割ってむき出しの感情で対峙することこそ、もうすでに「優しさ」なのだと思う。幻のようなあのレスの集積を、信じれる人間だけが「優しく」なれる。未だに自分は、いただいたレスを幻と思っているふしがある。他の話者になく、まれびとだけが持つもの。それがあの打算のない「優しさ」なのだろうか? / わざわざ途中で電車をおり、歩いて話してくだすった優しさは、自分には計り知れない。勤め帰りのお疲れのところ、わざわざ歩いてくだすったまれびとに、楽しいお話ができただろうか? 自分は何をしゃべっていたのだろうか? 頭の中が真っ白で、ほとんど覚えていない。やばいなあと思う。反省だけなら猿にでも出来る。やばいなあと思う。 / ねとらじにまつわるあれこれやら、人のうわさ話なんかではなく、故郷のあのやさしい風景について、工作について、あのノートについて、もっと言葉を重ねるべきだったのではないか?