あらしとニフラム

吹くからに秋の草木のしをるれば むべ山風をあらしとニフラム

ここ二三日、
雨ばっかだなーと思ったら台風ですか。ヴィットリオ・デ・シーカ
うってかわって、今日は台風一過てやつですか、まるで掌返したように、
みょーに天気が良かったり、みょーに陽射しがキラキラまぶしかったりして、
みょーに照れくさいようなお天気です。

ひねもす薄暗がりの閉め切った私の部屋に、いま、小さなひとつの日溜まりがあります。
我家の間近にそそり立つ、アパルトマンの窓に反射した、午后の陽射しのゐたずらです。
そのゆらめく、まぼろしのやうな光のかけらを、忘我するままじつと眺めてゐると、
あやしうこそものぐるほしけれ、なのでござゐます。




謎の工作物。
ねとらじ永六輔さんのためのアートワーク。
前に描いたハネ先生のイメージ画像をチョメチョメして工作。
(http://d.hatena.ne.jp/mahone/20090922)

火曜日未明は、その永六輔さんのところで、
久方ぶりに大喜利参戦。 ああだこうだ、興じるなど。
戦争しながら、ラジオ聴いて、レスして、大喜利
結果はいわずもがな。まあ、普段と成績はさして変わらないんだけども。
それが余計かなしい、秋めいた渇いた風の今日この頃なのですけれども。
戦争なんてろくなもんじゃない。せんそうはんたーーい。
戦争はなにも生まない。人類にも、ひきこもりにも。

というのは建て前で、実際は
人類の化学の進歩と戦争の間には、密接なアレがございまして
戦争という民族的躁状態、得体のしれない巨大な情熱が、
今も昔も、人類とひきこもりの化学を進歩させてきたのは周知のとおりでございます。
私が今まさに、徒然なるままに言の葉を向かわせるコンピューターなるものも、
そもそもはミサイルの弾道を計算したり、暗号解読を目的に生まれたそうでございます。
およそ一世紀の昔、戦争が生んだコンピューターで、今また戦争にうち興じる私たち。
およそ一世紀という時間を経て、ふたたび巡り閉じゆく、この面妖なる歴史の円環に
もののあはれ」といわれる不可思議な感覚を覚えること、禁じ得ないのでございます。

「純粋消費」という言葉がございまして、
戦争を、人類の純粋な(そして巨大な)消費欲求の解消と捉えたおっさんも、かつておりました。
純粋な消費 → 神へのサクリファイス、供物という点で
戦争と祭を、並べて比較考察したそうでございます。
戦争も祭も、「純粋に(見返りなく)、なにかを消費したい」という
人類の根源的な欲望と結びついているそうでございます。
見返りをもとめない純粋な消費、その人々の活動は虚空へ、音や熱となって解放されますが、
その(情)熱は、神へと捧げられた。。そう解釈されたとき、
きっと人々の心の虚ろは、満たされるのではないでしょうか?
古今東西、人類はすべからく消費の欲に捕らわれて、右往左往いたします。
時代の支配者、そして名もなき民衆の集合的無意識が、
戦争(祭、巨大な消費)を求むるも必然、いわんやひきもりをや。
と、思うのでございます。