わたしの、やんごとなきかたへ

いつもとなにも変わらない、わたしの日記を、
いつもとなにも変わらない、しけた気持ちで開いてみたら、、
たまげました。
魂が消えると書いて「魂消る」。まさに、このことだなと。
ありがとうございます。そして、おはやうございます。

「柳津はスゴク山です。」
やんごとなきかたのお言葉は、素敵すぎますね。
早朝から、空からふってきた福音でも授かった気分です。
きょうは、そとで雨がふっています。

いま目の前に、やんごとなきかたの、言葉があります。
わたしの日記帳に、やんごとなきかたの言葉があります。
あらためて、魂消ます。わたしの魂は消え入るのです。
やんごとなきかたの声を知覚すれば知覚するほど、やんごとなき方への無限の距離を感じるように、
やんごとなきかたの言葉を知覚すれば知覚するほど、やはり、わたしは
やんごとなきかたへの絶望的な距離を知るのです。
この絶望感こそが、同時に、純粋な「憧れ」なのだと、わたしは知りました。

つげ義春会津が大好きで、いろいろ淋しげなところを、旅しているそうです。
つげの紀行文を読んでいると、会津のいろいろな地名が出てきます。
それに触れるたび、やんごとなきかたのことが思い浮かびます。

やんごとなきかたが、「あわ饅頭」のことを思うように、
つげの考えていることも、つげの大好きな会津も、会津のやんごとなきかたも、私は大好きですが、
好きであれば、好きであるほど。思えば、思うほど、なぜか、
つげの考えていることも、つげの大好きな会津も、会津のやんごとなきかたも、遠くに感じるのです。
手をのばしても、手がとどかない。
好きになって、はじめて、そこにある距離を、私は知るのです。
かなしいかな。
好きになれば、好きになるほど。思えば、思うほど、
わたしの心は、対象への距離を、はっきりと感じとります。
無制限に好きだと、無限に遠いのです。

今日は、日記を書かずに、だらだらすごして、寝るつもりでしたが、
言葉にお答えすることで、日記を書くことができました。
うつろな時間と、ただ、好きなものへの無限の距離だけが支配する、わたしの毎日ですが、
日記を書くことで、自分の感じたままを、言葉にすることで、
なにもない、今日という不毛の荒れ地に、印をつけ、
きちんと記憶に残すことができました。

ありがとうございます。

この言葉が、
わたしとわたしの好きなものを隔てる、(計るすべのない)無限の距離のなかで、
きっと、ひとつの点となって、無限を(計ることも可能な)有限としてくれたら。。
そう願ってやみません。