知覚、絶望、憧れ

枕頭にて、相変わらずつげ義春関連の本を読み返す。
そもそも、漫画をいっさい読まない人なので、つげの漫画自体を読み返すこともそうそうないのだが、
つげ義春という人がどんな人なのか、なにを考えていたのかという部分には、すごく興味があって、
ことあるたびに、本人の文章や関連書籍を読み返している。
読むたびに、なにかしら気付くことがあったり、改めて感じる部分があるように思う。
そうでもなければ、飽きもせずくりかえし読み返すこともないのだろう。

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つげの撮った写真で、深く心に刻まれている一枚。
つげの写真で一番好きなやつだ。そもそもつげは写真家でもないのだから、
それを取り沙汰してどうこう言うのも的外れなことなのかも知れないけれど。

この写真については、数年前にもどこかでなにか書いた記憶がある。
テキストは散逸してしまい、それがどうにも思い出せないんだけれども、、多分以下のようなこと。

自分はひなびた場末を散歩する趣味があって、好きな風景について、
いくつかの見どころというか、ポイントがあるのだけれど、「未舗装の路地」というのもその一つ。
ただ永年、自分がなぜ未舗装にグッとくるのかが分らなかった。
この写真について、つげと編集者が対談していて、その中で
「未舗装の路地は雨でぬかるむ。その土砂が跳ねて、路地に面した建物の板壁が汚れている感じがいい」
という一節に出会い、それですごく納得してしまった記憶がある。
未舗装の路地自体の味わいもそうだが、未舗装路地特有の土砂の跳ねによる構造物の汚れがポイントなのだ。
これは思いのほか重要なことと思えた。大袈裟に解釈すれば、
土砂の跳ねは、自然物(大地)と人工物(建物)の境界を曖昧にし、
町という空間における自然と人工のせめぎあいを、穏やかに溶けこますような作用さえあるのではないか?

今回改めて、この写真を眺めていて思ったことは
これを撮影した場所が会津であるということ。つげの、ひなびた場末を巡る旅行話に頻出する会津である。
なぜ会津を意識するのかといえば、もちろん、かのやんごとなき方のお膝元であるからで、
以前この写真を見た自分と今の自分とで、なにが違うのかと言えば、
結局それは、やんごとなき方の存在と思われる。
そう思いつつ、あらためてこの写真に、吸い込まれるように没入していくと、
今度は、写真の中のお面の少女の像と、自分の中の(勝手に想像する)やんごとなき方の像とが、
みるみる重なってゆく。
もちろん、すべては自分の勝手な思い込みなのだけれど、
自分の中で発酵培養された、やんごとなき方のイメージが、
つげの写真の不可思議な引力にどんどん吸い付けられ、お面少女の像に接近し、
ついには、ぴたっとそこに定着してしまった。
お面少女の像も、やんごとなき方の声(ねとらじ)も、いま、すぐそばのように知覚することはできる。
像や、声だけが、ただそこにある。
けれども、本当の姿は、ゆめゆめ捉えることができない。
近いようで遠い、無限の距離を知ること。
それにともなう「憧れ」とか「絶望感」とか呼んだりする感情とともに、
像や、声だけが、ただそこにある。

つげが、ひなびた雰囲気にひかれて何度も旅した会津。そしてやんごとなき方のお膝元。
つげの写真のような風景を探して、いつか旅してみたいなあと思ったりする。



蛇足になるけど、
たぶん無意識的に、つげのあの写真に大いに感化されて
シャッターを押したと思しき、わたくしの一枚。

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*1:会津西山温泉 1968?

*2:豊島区高松にて 2007