ゲームの奴隷

いよいよ昨晩、巨大同盟と連合同盟が開戦した。
現実同様、ゲーム内でも電脳水呑百姓、田舎侍、南東退屈男を自称するおれとしては、
めんどくせえ、の一言につきる。
前に、とある会議で所属同盟の盟主から
「これは、戦争するゲームですから」と進言されたことがある。
そんなことは分っているし、そういうことをいちいち言葉にするようなプレーヤ、
ましては同盟君主はどうなんだ?という思いが強い。
以前、別の鯖でプレーしていた時も、今と似たような規模の同盟にいたが、
参加プレーヤや同盟全体の成熟度は、まったく異なる印象だった。
戦争に積極的な幹部もいれば、慎重論を唱える幹部もいた。
タカ派ハト派がきちんといて、同盟の行方を左右する重大な決定を行うときは
(形だけでも)同盟内意識調査があって、それにともなう活発な意見交換がなされた。
今の同盟は、どこか浅慮でイケイケな物言いや、無駄に血の気の多い武官が幅をきかせる
(というか、武官しかいねえんじゃねえか?)幼稚な集団に思える。

「戦争するゲームだ」
そんなことは分っている。だからこそ、あえておれは言いたい
トラビアンは(義理)人情のゲームだ」
戦争みたいな現実を離れて、誰がゲームにまで「戦争」を求めるか。
「戦争するゲーム」だとかわざわざ口にすることも、口にするやつも、
一言で言えば「興醒め」なのである。
大胆に言わせてもらえば、
「戦争ゲーム」に「戦争」だけを求めるプレーヤは、所詮「ゲームの奴隷」である。
畢竟「ゲームの奴隷になりたい人間と、そうでない人間がいる」ということだ。



枕頭にて、つげ義春関連の本を読み返す。
泥棒稼業をしていた、つげの祖父(正確には義祖父)のエピソードが、いつ読んでも印象深い。
祖父は、漁師町で漁につかう網を盗んで生計を立てていた。
その祖父が老いて、幼いつげから、手塚治虫の漫画をねだられる。
金のない祖父が本屋で万引きをし、店主から本で頬を打たれる。
つげの手を引き「いくべえや」とつぶやく祖父。舌打ちするつげ。
印象深いといえば、板前をしていたつげの父が精神を病み、
旅館の布団倉庫で布団に挟まって死んでいた光景の描写もそうだ。
泥棒をしていた祖父、気がふれて狂死した父、現実と非現実の間を彷徨うようなつげの描く世界。
どれも自然に通底しているようで、自分には、ごくあたりまえに納得できるのだ。。