音楽の向こうにある気配

オガーさんのラジオブログを知る。*1
さっそく拝聴。ひさしぶりにオガーさんの声を聴く。モリモリ山盛りnight(だっけ?)以来である。
あいかわらず、いい声でいい話をされていた。見習いたい。
対談相手は知らない。クソー対談してえな。スカイプ環境ねえ。
例のオレンジ色のクソSNSにて、ひさしぶりに連絡を取り合う。
しかし、例のオレンヂ色のクソSNS。これしか方法がない。しょうがない。クソいまいましい。
(そもそも、オガーさんと知り合えたのは、くそオレンヂ色のおかげなのだ、それが余計いまいましい)

自分の中で、オガーさんのどのへんが特別なのだろうか? いま一度かえりみる。
これが、なかなか難しい。オガーさんという人物像同様、輪郭がぼんやりとしている。
「(芯のようなものが、ものすごく)ぶれない人」。とか、だろうか?
自分の周りに、「自称音楽ファン」は掃いて捨てるほどいるが、こういう人は、なかなかいない。
2点ほど、そう思うふしがある。

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音楽ファンとしてのオガーさんは偉大だ。本当の意味で良心(良識)的なファンだと思う。
ぜんぜん種類(性質?)の違う音楽を、あえて同じ土俵にのせて、平等に聴く姿勢。
最高にいんちき臭いチンピラNDW(ジャーマンニューウェーヴ)と、声優のポップス。
世にいう良識的な音楽ファンが、絶対しないような行為だ。
(そもそも「世にいう良識的な音楽ファン」は、チンピラNDWも、声優ポップスも、聴かない)
しかし、そもそも「世にいう良識的な音楽ファン」とか「良心的な音楽ファン像」というもの自体が、
「レコードを売る側の広告の一環」であることを、忘れてはならない。(おれ、しつこいね)
「これは、間違いない」「これを聴いておけば安心です」ってか?
同時に、「非良識的音楽ファン」「カウンターカルチャー派」という「ファン像」自体も、
「レコードを売る側の広告の一環」でしかない。
じゃあ、どうすればいいのか? 「なんでも聴け」って話である。これが簡単そうで、難しい。
根無し草のように漂うのは、簡単そうで、実はすごく、決意と、信念(のようなもの)がいる。
もしくは、広告や商売に「踊らされてるのを承知で踊る」ということだろうか?

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「一発ギャグというものが自分の脳神経に届くまで最低2年はかかる事に気付いた」(オガー談)
こういう姿勢の影響もあるのだろうか?
コンテンポラリー(同時代的)である、ということへの、根本的な懐疑心。
良くいえば、対象に向かう時の、ゆるぎない、飽くことない咀嚼と、消化作業。
悪くいえば、ある種の鈍重さ。

ラジオでの、オガーさんの話は、普通に聴いていて楽しいし、ある種の滋味さえ感じるのだが、
欲をいえば、オガーさんの変態的音楽ライブラリーからの、棚からひとつかみを期待したい。
チンピラNDWと声優ポップスを、交互にかける企画なんかどうだろう?
「声優もの」というのも、ねとらじ界隈で特別多く耳にするのだが、どうも自分には響いて来ない。
おそらく、話者(選曲者)の確固たる視点の不在が、原因である。
(つい太で「熱い!」とおっしゃってた)ブックオフで100円で狩ってきた90sポップスを
(ドグマにまかせて)オガー視点でかけまくる放送とか。ものすげえ聴いてみたい。
結局聴きたいのは、音楽の向こうにある、その人の声なのだ。



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