gaze in solitude, 或る厭世家の視線

オオギリスト、ソリチュード氏の日記より*1
『街を歩きながら、耳に入ってきた会話の切れ端を速記して繋ぎ合わせる一人遊び』
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なんか、すげえなと思う。
そういえば、私が学生の時分、こんな授業があった。
まず、街の立て看板(簡易な木の骨組みに、化繊の幕で作った、使い捨て看板)の言葉を採取する、
それを分解、再構成して、任意の文章を作り、その文言を自作の立て看板に記し、再び街に(勝手に)設置してくる。
「街の言葉を無作為に採取し、再構成、街に再び還元する」という授業である。
(捏造ではない。あまり仔細に言及すると、身バレしそうなのでご容赦ください)
現代美術専攻の実技授業とかいって、つまりは、こういうことをやっていたのである。
いま、思い返してみても、なんだかなあ、という気がするのだが。
(なんだこの非生産、非効率。はからずも、いまのおれの無能性と見事に地続きじゃねえか!と)
そういうことを、氏は、自然に、独り遊びとしてやっているのを読んで、
おお!と思ったり、つい、ニヤリとしてしまった。

たしか、学生の私が、採取、分解、再構成した文言は、「ヨーヂー、強くフランス」というものだった。
お手製立て看板の、眩しいばかりの白い幕に、
スミの、太く力強いゴシック体で『ヨーヂー、強くフランス』とレタリング。
それを随意の街角に設置。行き交う通行人と共にシャッターに収めて、その授業は終了した。
たしか街は、夏の終わりか、秋のはじめの陽射しの気配だったような、、
、、ぼんやりと、そんな記憶がある。

ソリチュード氏は、「コラージュ」という言葉をつかっていた。
コラージュ、パピエ・コレ、アッサンブラージュ、細かくは、様々な呼び方があるが、
どれも、近代に発生した様式で、シュルリアリスム、ダダといった芸術運動において盛んに用いられた。
(今でいう、サンプリング、カットアップ、コピー&ペーストとかかな?)
画像のコラージュと同時に、言葉をコラージュして、
「百頭女」などといった(奇怪な)絵本風の作品を作っていた、マックス・エルンストという作家がいる。
奇しくもこの作家、マックス・エルンストが、私の卒論のテーマだった。
在学中は、特に好きな作家だったわけでもないのだが、
(他の生徒が、すすんでもっとコンテンポラリー(同時代的)な作家をテーマに取り上げるなか)
なりゆきというか、いろいろあって、なしくずし的にそうなった。
そんなことを、ぼんやり思い出して、ひとり、学生時代を懐かしんでいた。
今の自分は、そんな独り遊びをする気分とは、およそほど遠いところで暮らしているなあと。
ひんづればどんずる。
気がつけば、その日暮し。
気がつけば、その日のエサのことしか、どうやら考えていない模様である。




Max Ernst "untitled" (1919)


Shinro Otake "cut&paste","路上のニュー宇宙"


*1:たまたま巡り合わせた、一言の回答が縁で、アンテナ登録させてもらってます。これは偶然です。あしからず