○様のメタ表現

 ようやく、先週の温泉気分が抜けてきたのだろうか。。遅えよっつう。
 なにかと、ちょこちょこ、こまごま、どっちでもいい謎の作業に勤しんでおります。馬の骨です。みなさまいかがお過ごしでしょうか? くそ暑いですよね。氷らせた水道水とか、いかがですか。いらないですか。

 昨日の「○様のブログの、記事カテゴリ『日記』『ブログ』」の件について。
 昨日の拙エントリを眺めながら、ちょこちょこ補稿改稿してたんだけど、なんかクソ長くなりそうだし、潔くないような気もするので、改めて今日も書きますだ。
 ○様の「記事カテゴリ『日記』『ブログ』」が、どうにも気になって、これってなんなんだろう、、なんでこうも気になるっつうか、ひっかかるんだろう?って、ずっと考えてたんだけど。これも一つの「メタ表現」なのかな?っていうことを、ふと思った。
 脱(ポスト)表現とか、高次元の表現だとか、そういうクソみたいな消極的な意味合いで紋切型に使われる「メタ表現」じゃなくて、たとえば、自己言及的表現とか、自己形式批判みたいな意味で。
 たとえば、小説が「小説という形式について書く」のもメタ表現(自己言及的表現)。「ねとらじという形式についてあれこれ語るねとらじ」も、一種のメタ表現といえると思う。自分も一時、アホみたいにねとらじについてねとらじで語るっていう、需要のない(なくもないか)、そしてクソ面白くもない(放送してるのがオレだからね)メタ放送をしてたわけだけれども。○様のブログの「日記」「ブログ」っていう記事カテゴリ設定も、これもひとつのメタなスタンスだと思った。
 「ブログという形式についてブログで語る」っていうのは、オレみたいな馬鹿でも思いつくメタ表現の駄目な例だなんだけども、「『日記』『ブログ』っていう記事カテゴリ設定」は、それだけでなんつうか、非常にさりげない、スマートで鮮やかなやり方で、ブログをメタ表現の水準に押し上げてるなあと思うわけですよ。
 普通、ブログの記事カテゴリに「日記」「ブログ」って、しねえもん。この記事カテゴリ設定だけで、「ブログと日記って何が違うの?」とか「で、結局ブログって何よ」て、実に鮮やかな手腕で、なにげなく読者に問題提起しちゃってるわけですよね。すげえなと。これ(○様のブログ)読むやつら、そのへん真面目に考えてるのか、と。じつにエグいなあ、足下かっさらうなあと。
 ○様のラジオを聴いていて、ああでもないこうでもないと、なんかもやもやしてる部分があると、昨日のエントリでも書いたけど、例えば「○様はラジオでもメタ表現している」と仮定して、改めて聴いてみると、いろいろのもやもやも晴れるのかもしれない。いろいろ整理がつくのかも知れない。ねとらじについてねとらじで喋るっていう、オレみたいな鈍重な発想のやり方じゃなく、もっと巧妙で周到な、分かりにくいやり方で、ねとらじという表現形式、ねとらじという様式、そのものについて批判、言及しているのかもしれない。
 だいたいオレみたいに、ど頭から「ねとらじってなんすか?」っていう放送は、嫌味だし、それだけで聴者を構えさせるだけだし、ぜんぜん駄目だなと思った。クソ面白くないしね。
 次、聴く機会があれば、○様の放送は「メタねとらじ」として聴いてみよう。そうしたら、いろいろすっきりするのかもしれない。