最小だからこそ最大のアレ

午后のよくわからない時間から放送してみる。
「よくわからない時間」ってのも、よくわからないんだけども。
じゃあ「よくわかる時間」ってのが、あるのか?って話なんだけども。。
尾崎放哉「墓の裏に廻る」をいただく。これは、すばらしかった。
ほうさい、ほうさい、ほうさい。(←自分用)




渋っちの命日ということで、ちょっとそれに触れたり、
あとは、いつもの、わけのわからない音楽放送ふう。ほんとうに、わけがわからない選曲。
例えばlate70"s〜early80"sあたりでかけるとしても、ニューウェーヴAORふう、
どっちもごちゃ混ぜにかけるって、普通の音楽ファンには、絶対、解せないだろうし。
「わけのわからなさ」それだけが売りの音楽放送。あとは自己満足だけ。

心のどこかで、いつもモヤモヤしてること。
所詮アレなんですよ、音楽ファンが「渋い」っつって聴くような選曲だとか、
これ聴いとけば「通っぽい」とかいうアーテストだの、いかにもな「音楽ファン像」だの。
それ自体が「すでにレコード屋の商売」だったり「広告戦略なんだよ」って思いますね。
大衆から、どうやってお金を搾り取るか。
「大衆の、芸術への欲求と、ただの消費欲を、いかに混乱させるか」。そんなのばっか。
だから俺は、(聴いてると)「あー!おれんちに帰ってきたー」って感じるような、
泡沫系(大衆)音楽ばっかり聴いちゃうんですよ。結局。

それから、自分の音楽趣味のストライクゾーンとは無関係な、
好きと、嫌い(どうでもいい)の、エッヂ(きわ)の部分。これがいつも気になっている。
好きと嫌いのエッヂの部分だけが、いつも刺激的に、自分の耳に響く。
(楽しみ方が)分らなかった種類の音楽を、急に(楽しみ方を)分る瞬間。
自分の感覚、知覚のしくみが、ひょんなことで、くるっと再生する(死んで生まれ変わる)瞬間。
その瞬間だけが、いつも楽しくて、美しい。



FNSの某苺先生の連投日記の意味が分らなかったんだけど、某所を覗いて納得。
いやー、先生おもしろいわw



某氏の作業結果について。
昨日は寝てなかったせいか、あれ、自分の耳がアレかな?と
一日置いて、今日改めて触れて、感想を書くなど。*1
書いていて、いろいろ自分の放送姿勢について、鑑みるなど。
自分としても、聴き飽きてる文言であるし、聴き取れなくてもいいと思ってるんだけど、
やはり、ねとらじに限らず「一期一会」というのが、絶対あると思ってるし、
こちらから提供する素材(声、話題、音楽...etc)の段階で、こちらから閉じるべきではない。
閉じて(諦めてい)たら、ねとらじ放送すべき理由など(自分には)見当たらない。
それは、ブログに向かう気持ちと似てるけど、
放送する時も、大海原にメッセージボトルを投げ込むような気分。
そのくらいの気持ちを、忘れたらだめだなと。
もっとも希薄な、最小(最小だからこそ、最大)の、期待感。



【放送名】 うたごえ喫茶「やけのはら」
【放送内容】トーク(チョメチョメ) おんがく
【放送日時】2009-08-05 15:04 (2h51m)
【放送情報】http://ladio.net/src/9DZJ


オストデカイ


*1:以下自分用備忘:○○○さんの土着的な雰囲気と、音のモダンな感触の対比が、面白いなあと思いました。それから、なにをしゃべってるのか、分らないなあと思いました。ジングルなので、文句の内容は、分らなくてもべつにいいし(単なる、音として捉えたい気持ちもあります)、僕自身としては、聞き飽きてる文句なので、別段、気にならないのですが、ねとらじでの、リスナーさんとの一期一会を考えると、あまりおろそかにも、考えられないのかと。(結果的に放送が閉じてるとしても、こちらから提供する話題、音、素材の段階で、放送を、最初から閉じるつもりはないので)