愛のよいん

よふけ。
近所の民生食堂まで、○○を食いに。
ここのところずっと、おにぎりか100円パスタだったので、無性に○○が食いたかった。
いつものエサに飽きて、べつのエサを求むる。
炊いた穀類の横に黄金色のペースト状のものを配して供される、不能者を養う飼料。
大盛り350円のそれを、到って真顔で、まじまじと噛みしめながら、
24hリレーの余韻にひたりつつ、ぼんやりと思い返していた。

まず、関わった全ての方に、おつかれさま、と言いたい。
特に主催者氏は、心血を注がれたと思う。
あれを、あの行いを、愛以外のなんと呼ぼう。
あれこそ、無償の愛、至上の愛、ラヴ・スプリームとでも讃えられるべきだろう。 
愛があるってすばらしい。やっぱり、無いより、在るって、すばらしい。
人への愛、世界への愛、宇宙への、愛。いわんや、ふつらじをや。

そして、本スレ避難所議論スレヲ○スレなど、各所で繰り広げられた、愛憎劇。
「ふつらじ」というものを中心に渦巻く、愛と憎しみの相克。
慈しみに向こうが、憎しみに向こうが、人の情動は絶対値で計られるべきなのだろう。
慈しみも、憎しみも、つねに表裏一体である。
主催者はじめ、関わられた人々全ての、愛の結晶。愛の総量。
その愛の、寵児となるか、愛の孤児となるかは、ほんのわずかなさじ加減ひとつだと思う。
愛の寵児は愛に酔い、宴に興じ、一夜の春を謳歌する。
愛の迷い子は愛に飢え、見境ない憎しみを募らせる。

愛を与える。
与える、ということについて、あらためて、考えさせられる。
私のラジオは、ただの、私のはけ口でしかない。
しかし、私の尊敬するDJ氏によれば「ラジオは、人のためにやっている」という。
私は、初心者だからか「人のために放送する」というふうには、なかなか考えられない。
「人のため」だとか思ってしまったら、なんだかそれだけで、
自分が、思い上っているような気がしてしまう。
私はあくまでも、自分の好きなように、勝手に放送することしか出来ない。
それでも聴いてくれる人がいるというのは、本当にありがたいし、奇跡的とさえ思う。
しかし、尊敬するDJ氏が「人のため」というのだから、
それは絶対、正しいのだろう。
自然に「人のため」と思えた時、自分の限界をつきぬけて、
はじめてたどり着けるような、放送のかたちがあるのだろうか?

満腹だーーと、ちゃりんこでふらふら帰ってきたら、
某まんじゅう氏が音楽放送していた。2,3曲しか聴けなかった。。
のんきにカレー食ってる場合じゃなかったよ、おっさん。
カレーとリレーは、ちょっと似ている。