あなたは、まれびと

ある、ねとらじの話者の口癖
「○○でっすか〜〜♪」「○○しっまっしょうね〜〜♪」(独特の節をつけて、唄うように)
私は、これと同じ口調を、大昔に、どこかで聴いたことがある。
学校の教師だったかもしれない。
友人の母親だったかも知れない。
昔観たAVの女優だったかもしれない。
思い出せない。嗚呼。。
あれは、方言なんだろうか? なんなんだろうか?
朝から、混濁した意識のまま、心に釣り糸を垂れて待っていた。

やんごとなき方の日記を読んでいた。
前々から、あの「『内容よっか文体かなぁ〜』みでぇなもんです 」という一言が、気になっていた。
「文体」という言葉をつかうあたり、やはりいろいろと、
やんごとなきお方の、自覚的な姿勢を推し量るに充分なのだが。
それにしても、内容と文体。
小説でいえば、物語と文体。
表現全般でいえば、意味と形式。
ねとらじでいえば、内容と語り口。ということになるだろう。
(なにか同時代的な問題意識を共有する、意識的な)現代作家が問題にしたのも「文体」だった。
私の好きな作家(評論家)は、時に「物語り」よりも「文体」こそが雄弁であると言う。*1
この前、ねとらじで話題に出た「話者の裏方タイプとパフォーマータイプ」の話でいえば、
優れたパフォーマーは、優れた語り口を備えていると、つくづく思う。
内容いぜんに、まず、語り口がありき。
語り口が内容(のようなもの)よりも、多くを語るのだ。
うつろいやすい、足下のおぼつかないような「内容」よりも、
「語り口」それ自体が、聴者に与える情報量や感情というのは、膨大なのかもしれない。

「はじめに言葉ありき」
たしか聖書の言葉だったと思うが、これは永年、私の座右の銘だった。
曲解を承知で書くが、
内面(心、エモーション)よりも、言葉(出力)がまず先にある、ということ。
初頭教育の現場では、
(平等な教育機会確保のための)時間的な制約や、教育の能率化、教師の能力の限界もあり
「まず先に内面があり、それでこのような言葉(出力)が生まれた」というような、
ごく単純な方法を、あたかも不変にして普遍なこととして教える。
「内面」というものは、不偏ではない。
少なくとも、文学の世界では、近代に入ってから新たに発見されたテーマである。
神話、神と悪、魂と肉体、宗教、戦争、自然...etc こういった古来〜中世からの文学のテーマに
近代(近代革命、以降)に、あらたに加わった(表現者に発見された)、モチーフの一つである。
内面は絶対ではないし、言葉があるところに必ず内面(のようなもの)があると思うのも、短絡である。
なにも感じなくても、なにも考えなくても、言葉は、ただそこに在る。

ねとらじにおいても、
うつろいやすい、足下のおぼつかないような、「内面」よりも、
問題にすべきは、語り口(声、しゃべりかた)なのかもしれない。
以上、ぐだぐだと述べてきたが、
いちいち、こんな硬化した(しなやかさを欠いた)考えを待たなくても、
ごく自然に、魅力的な語り口で放送されている方が、たくさんおられる。
たとえば、師匠や、やんごとなき方の放送を聴いていると、
そこから感じられるのは、「言葉と内面」という西欧化された二極化云々といった印象ではなく、
「言霊(話がうさんくさくなるからあまり使いたくないけど)としての言葉」であったり、
なにか、原初的な姿の言葉、土着的なシャーマニズムのようなものを、
あたりまえのように、ごくごく自然に、己の声と肉体に住まわせている、
そんな気さえ、してくるのである。





本日の謎の作業より
馬の骨放送でおなじみのアレをチョメチョメしてみました。

Sandals feat.やんごとなき方 (jk's dump mix) 〜値上げ編〜
http://kissho1.xii.jp/7/src/7jyou24333.mp3.html (key=00)


sandals "a profound gas" '92

*1:関連事項:ディスクール(言説)、ターム(弁述)