ハンバーグをめぐる方法

早朝。
遠くの方、セミの声が風にゆれる。ふぬけた、うつろな、朝。
カーテン越し、琥珀色の、寒天のような光の朝。

大喜利のほうは、まだアレがアレしてる模様なので、放っておいて、
いま一度、テキストのほうに向かう。
すこし前なら「ラジオラジオ」という感じだったけど、いまは、鬼がいるのでラジオもできない。
鬼がいなくても、やるかどうか微妙だけど。
大喜利の、6分刻みの裁きの、あの速度と密度に慣れてしまったから、
なかなか、ラジオ配信の方に、気持ちを持っていくのが難しい。
どっちが良い悪いとかじゃなくて、感覚の問題。
自分にとってのラジオ配信は、もっと緩やかで希薄な(比重の軽い)意味の世界。
大喜利が(速効性のある)抗生物質なら、ラジオ配信は漢方薬みたいなもんだ。
ハンバーグについて、大喜利で解答するのと、ラジオでしゃべること、
思考の方法も、つかう脳味噌も、まったく違う。当然だけども。

大喜利抗生物質、ラジオが漢方薬なら、
(ハンバーグについて)テキストを書くことは、何にあたるんだろう。
他にブログを数年やっていて、以前はほぼ毎日書いていたりした。
だから、大喜利やラジオ配信などに比べたら、自分にとってはなじみ深い方法なんだけれども。。
息をしたり、水を飲むようなことなのかもしれない。
(ほとんど無意識的に)基本に、テキスト書きの、思考の感覚があって、
それを基準に、ラジオ配信はああだな、大喜利回答はこうだな、とか、
考えていたりするのかもしれない。

自分は、
書くように、しゃべれないし、
しゃべるように、大喜利回答することもできない。
テキスト書きと、大喜利回答は、同じスケール上にあるような気もする。
ただ(以前の日記にも書いたとおり)、言葉の意味の密度と精度を、極端に鍛えなおす必要がある。
100文字200文字だのの意味やら情報やらを、一言に込めるような。(超高比重)*1
あるいは無言(行間)に込めるような。
だから自分にとって、大喜利回答は詩と同じだ。
他人が、笑おうが笑うまいが、そんなことはどうでもいい。
自身が、まず一人目の鑑賞者として、(己の何かが書かせた)言葉と対峙してみて、
「これは詩だ」と感じられるか、どうかでしかない。

で、ハンバーグについてなんだけど、、、
未だこれといって、無いのだ。。ああ腹がへった。。
カップラーメンでも食います。



 オストデカイ

無垢と穢れ、いなたい純真と渡世の狡猾、
あけすけな放埒と慈しみの母性、衝動と諦念。。そんな、ない交ぜのるつぼ。
やんごとなき方は、ねとらじのコバヤシチヨジだ。


*1:ただし、饒舌で仰山な言葉に、意味をまったく込めない「言葉の超低比重が生み出す意味」というやり方もある