週末。浪費の感触

まーた大喜利ばっかやってた。
嫌になるくらい、己の凡人っぷり、面白くない人っぷりと、長時間向き合わされる。
嫌になるけど、それでも取り組みたくなるような興味の方が大きい。

やってると、自身で思ってるよりすごく疲れる。
普段ありえないような量の情報が、高速度で(ほとんど瞬間的に)
脳味噌に入力されてく、衝撃のせいだろう。
この「情報量」という物言いは、以前ヒプホプに関して云々した時*1と同じディスクール
質や内容については置いといて、単純に「情報の量」という点で整理して捉えたい。

まず、
大喜利の回答というのは、詩や広告コピーのような、凝縮された(高密度な)情報を持ってる。
瞬間的に、(日常にある言葉と比較すると)高比重、高密度、高深度、振幅の大きい意味*2を、
加圧、圧縮して、観者に入力してくる。
この時、受け取る「情報の量」というのは計り知れない。
(この時、我々が感じる衝撃、ショックが、「おもしろい」という印象になるのか?)
高い情報量。高速で入力される「多量の感情」と言い換えてもいいし、もっと言えば
「日常の言葉」に比較して、非常に「エモーショナルな言葉」ということだろうか。

(前述のとおり)「面白い、面白くない」という観点は置いておいて、
単純に「情報の量」という点で捉えて整理する。
いや、大喜利に参加してみて気付いたが、自分の思考自体が自然にそう働かざるをえない。
いちいち、「面白い面白くない」という曖昧で複雑な思考の経路を辿っていては、
とてもあの現場の速度には追いつけない。
どの言葉がより「高い情報量」を備えるか。
そういう視点で投稿や投票をしていかないと、個人的に不満のない精度、
(ある程度目を通し、意識を通わせるには)なにか間に合わないものを感じた。

夜半に、まんじゅうさんが実況始めて興奮した。
あの方の放送(選曲含む)も、高速で高密度な意味を入力してくるからだ。
大喜利の行方を追う目も、放送を聴く耳も、衝撃をともなう入力に同時に晒される。
あの時間、ちょっと自分的に、おかしくなった。
(以前は、実況の方に何度かあたっても、なにを実況してるのか分らないので
数分で切っていたけど、実際大喜利をやりながら聴いてみると、すごさを感じた。)
それから、
ヒプホプ「的」なモノをかけていたけど、いちいち納得出来るのがおかしかった。
徹底的に、気持ちいいくらいに完全な部外者視点というかw
ものすごい冷静な距離を保って、ヒプホプも歌謡曲も、その他もろもろも
等距離で観賞する態度。批評家(者)根性つうか。

*1:http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/radio/4112/1228789376/r384

*2:意味の粗密。極端に乱暴であったり、意味の希薄な回答も、受け取る側の姿勢とのギャップで副次的な大きい情報を作る、ような