ポコチン、バーン!の速度


 救急車の速度がどうのとかいう話で、去年暮れにヘ先生がインタビューされているという本の著者のポッドキャストというのを聴いた時のことを思い出した*1。いろんな人々の死生観についてインタビューした自身の著作について語るという趣旨らしいのだが、サティのイントロで静かに始まり低いトーンの男の声が聞こえたかと思うやいなや「黒人男優が出演しているAVがよろしい」という話がおっ始まって、出会い頭に頭をひっぱたかれた気がして、なんだかおかしかった。なんで黒人男優のAVがよいかというと、交接の際の腰の運動速度がゆるやかで新鮮だという話だったと思う。なぜかその(私は実際には見たことのない、想像上の)速度のことを思い出した。

 とても高名だが私は全然読んだことのないとある作家がインタビューで、「ボディビルで体を鍛え、なぜ今度はボクシングをはじめたのか?」という質問に「プラトンは『速いものは遅いものより美しい』という言葉を残したが、いざ体を鍛えてみたら今度はそこに動きを加えてみたくなった」と、笑いながら冗談っぽく語っているのを聞いて、日本の古典文学やら伝統的な言葉の美しさを受け継いだ最後の作家と言われているらしいその人がプラトンを引用するという照れ隠しというか人間臭さというか、なんとも微妙な感じが印象に残った。たぶん、序破急だのゆったりした速度が日本らしい優美さであるみたいな話ばかり日頃半端に聞きかじるせいだと思う。

 作家といえば、また別の作家が小説の速度や読書の速度について書いていたのも思いだす。「物語の流れる速度」とそれを「読者が読む速度」があって、物語の1ページを読むのに実際に1分の時間がかかるとする。物語の中の時間は1ページにちょうど1分進むものもあれば、1ページに500年とか1000年進むモダンな小説もあって、物語の時間÷読者の読む時間が、その物語の速度となる。またそこに今度は「著者が物語を書く速度」も関係してきてどうのこうの。。。などと書いていると次第に自分自身にいらいらしてくる。思ったこと書きたいことをぼんやりとそのまま書いているだけなのに、そうやって出来た作文はなんでこういけすかない感じになるのだろう。反省しもう一度考えを改め、もっと身近なことを見回してみる。

 ヘ先生がある共同日記投稿サイトのようなところに日記を投稿していて、ある時、そこでの日記が「ポコチン、バーン!(爆発)」というものだったことがある*2。これはどうだろう、これは自分に身近で背伸びしなくても手が届きそうなことなのだろうか、どうだろうか。用心深く探り探りその「ポコチン、バーン!(爆発)」のことについて考える。「ポコチン、バーン!(爆発)」の速度についてだ。
 「ポコチン、バーン!」と思いつき考えてみてからタイプし(あるいは紙に書き)完成とするまでのへ先生の製作時間。「ポコチン」が「バーン!」と爆発(存在を誇示した?異常があった?)するという物語の中の経過時間。それを読み「ポコチン、バーン!(爆発)、か」と受けとめ、なにがしかに消化するまでの私の中の所要時間。3つの時間があって、関係性があるということは、そこに速度がある。

 すでにこのようにあれこれと「ポコチン、バーン!(爆発)」について考えを巡らしている点で、おそらく「ポコチン、バーン!(爆発)」という物語(というか状態、様態とした方が正確だが、それもまた物語である)が完結する時間より長そうに思える。よって、私にとって「ポコチン、バーン!(爆発)」は極めて低速度の物語だということになる。
 だけれどもまた一方では、こうしてうだうだとわけの分からない日記を書くことがなければ「ポコチン、バーン!(爆発)」は私の中を一瞬で過ぎ去っていったのも事実で、「ポコチン、バーン!(爆発)」と書いたへ先生の製作時間も、「ポコチン、バーン!(爆発)」という物語の経過時間も、「ポコチン、バーン!(爆発)」を読む私の所要時間も、ほとんど一致している気もする。それは、なんとなく「ポコチン、バーン!(爆発)」という物語には、意味や理由がないような気がするからだ。
 意味や文脈やしがらみやら、もろもろの重力から解き放たれた物語である「ポコチン、バーン!(爆発)」は、速度0で私の目の前の中空に漂っているか、静止している。