年明け他


 ジオラマ模型のような色の木々、山腹の湖。岸に白い遊覧船が停泊している。船には外輪船のような大きな水車が付いていたりいなかったり、眺めるたびに違う。岸と船の5mほどの隙間の水面に斜めに飛び込む。船よりも高いところ(空中)から飛び込んだ感じ。音はなくて飛び込んだ角度のまま潜ってゆく。背後にどんどん遠ざかっていく湖の丸い水面だけ見える。外から眺めた湖面とはぜんぜん違う、鮮やかな明るい青緑色をしている。(12/30)

 帰省の電車内。「かりんとうを食べたい」と母に云う子供。「ばばのところに行ったらね」「○○ちゃんは、なんでかりんとうが食べたいの?」と母。「いつも食べないから食べてみたいなあと思ったの」「そうなんだ、じゃあ今日は食べてみようね〜」というようなやりとりをずっと集中して聴く。自分には子供がいないくて慣れていないからか、子供はすごい感じがする。自分も子供の頃は子供だったはずだけれど、子供はなんかすごいと思う。(12/31)

 初夢。温泉のような共同大浴場。大きな窓が張り出したところがサンルームのようになっていて明るい。外は緑が繁茂している。よく見ると室内には極彩色をした鸚鵡のような鳥が何匹もとまっていて、開いた窓から入ってきた様子。そっと窓を閉め、これでいつでも鳥を捕まえられると喜ぶ。そこは浴室ではなく便所で、浴槽の浅瀬になっている水面に放尿する。誰もいないが広々としていて落ち着かない。(1/2)

 長い夢の大部分を多部未華子と仲睦まじく過ごす。恋人ではなく仲のよい友人という関係らしい。夢の中では多部未華子という記号が事前にあるだけで、彼女は普遍的な「女」として存在し(世界中を代表した女?)、そのように行動する。多部未華子の映像も出てこないし、多部未華子らしさのようなものも希薄。私がなにか言うと、おどけて死角からぬっと顔を出す。その時だけ、多部未華子の顔が視界をうめつくす。夢の中の視界は狭く、離れた覗き窓の向こうを見ている感じで、むしろ顔のアップの写真でも眺めているような感覚。彼女は恋人のように振る舞うが、どういう関係なのかまったく分からず、やきもきする。(1/6)



 (寝てみる)夢のことをここに書き残そうと思った当初は、普段の出来事をそのまま書いたらなんとなくセキララすぎるから(寝てみる)夢の話なら割りかしそうでもねえんじゃねえか?などと思っていたような気もするんだけど、よくよく改めて考えてみると、むしろ夢の話のほうがセキララでアケスケなんだろうか?と、ワケが分からなくなっておっかなくなってきた。
 (夢以外の他の個人的なことをここに書くと、それは(自分の中でだけ、少し)個人的なことでなくなる気がするけど、(寝てみる)夢のことはいくら書いても個人的なままな気がした(夢にはべつに意味や因果、理がないから?)。夢のことを書いてもどうにもならないけれど「なんか知らないけど、個人的なことを書きたい!」という欲望をお手軽に果たせる。)

 個人的なことを掘り下げてこだわって追求していくといつか突き抜けてセキララでもアケスケでもなんでもなくなって、なにもかもどうでもよくなって、知らないそこのあなたも私も世界人類皆兄弟なのだから私の(寝てみる)夢はあなたのことだし世界のことなのです、みたいな感じになるんじゃねえかと思ったりぜんぜん思わなかったりする。個人的とか個人的じゃないとかミクロとかマクロとかどうやって決まるんだろうな。基準はなんだろう。今こうして書いてる自分の態度が基準なのか。じゃあこの私の態度はなんなのか。というか通りがかりのあなたは誰なんですか、どうやってここに来たのですか。なんだかすみません。通りがかりじゃなくてちゃんと読みに来てくだすった方にも、すみません。どうもありがとうございます。もし、あなたの歳明がおめでたい感じでしたら、あけましておめでとうございます。そうでなければふだんどおりで。