ぎじしょくざい

 よる、大雨。明けてもさめざめと降り続ける。
 昨日、日記を書いたあと、その自分の作文に気分が悪くなる。他の作文同様、あれも、人のためとか誰かのために書いたわけじゃなく、その時々に自分が感じたこと、考えたことを、ただ自分のために残しておくためのもの。出来るだけ正直に、出来るだけ気持ちを落ち着かせて書いたし、推敲といえば大袈裟だけど、何度も修正改稿したりもした。でもなんだろう。出来たものを時間をおいて人ごとのように読み返してみると、なんだか、、という印象で、それを自分が書いたと思うと、なんだか気分が悪くなる。あの自分の作文は自分自身をそのまま映している。いつもは気を紛らわせ必死に目を背けている自分の本性に直面し、ただ気分が悪い。まんじりともせず、そのまま夜が明ける。
 Bさんの重い話を聞きたかったのには二つの理由があった。一つは純粋な興味。もう一つは、そういう話を聞いて(ほんの少しの時間だけど)その人と過酷な現実と向き合ってみて、一緒になにか考えて、なにごとか声をかけることで、日々自分が自分自身に感じている嫌悪感、罪悪感みたいなのが少しでもやわらぐんじゃないかという、疑似贖罪というかセコくて虫のいい考えだった。
 実際にそれをしてみて、そのあと、感じ考えたことを書いてみたら、、やはり結果は振り出しに戻るだけ、自分に嫌気が差すだけだった。だめ。

 同じころ別の場所で、冷や奴さんに絶妙なタイミングで言葉をいただく。「子供の時にかまぼこ板でなんかつくったよね」。なんなのだろう、この素っ頓狂にして薮から棒な具合は。。でも、冷や奴さんの場合はどんなことを言っても、人柄や品の良さが言葉に透けて見える。むしろその予想外のところから飛んでくる薮から棒が、しょうもない自分の心を、妙に和ませてくれる。すごく不思議だなと思う。
 最初から140文字という制約のことばかり考え、必死に体裁を保てる限界まで文法を圧縮して、伝えたいこと、意味、言葉を詰め込むような、ゆとりのかけらもない自分のつぶやきが気持ち悪い。これも自分という人間を端的に映している。冷や奴さんの自由闊達で、煩瑣なことなど軽く飛び越えていくようなつぶやきが、輝いて見える。とても自由。厳密な意味や精度などではなく、ムードや気分のようなものを優先して伝えるつぶやき。それがなんだか正しい気がしてくる。そういうつぶやきは読んでいる人を意味やへんな言葉の圧力で追い込まない。それが読んでいてとても優しく思える。優美に感じる。

*当日、書いてたけど上げてなかった分です。この時の「どうやってもアレな気分」もだいぶ忘れかけてきたので。ぬさもとりあえず。