食卓の大ガラス




 よほどすることがなかったのか、ぼんやりと「すみれいろ焼そば」とか「うどんゲイトリー」の写真を見返していて「ああ、この透明な皿にもすっかり慣れてしまったんだなあ。。」と呑気なことを思っていた。大は小をなんちゃらとかいうが、かれこれ数年来、ほとんどの食事をだいたいこの大きい透明皿で済ますようになってしまった。このまま電子レンジにかけたりできるいわゆる耐熱皿というやつで、食事用というより(ボールとかホールとかああいう類の)調理用の食器なんだろう。食事の見栄えもくそもあったものじゃない。趣きに欠け不粋このうえない。想像していただきたい、皿の底が透けて見えるというのは食っていてものすごく落ちつかないのだ。透明皿を使いはじめてまだ不慣れなころ、食事中、料理(ないしはエサ)をみつめるまなざしが、料理が配された支持体(絵画でいうキャンバスとかですね)の上でぴたっと止まる(収まる)というあたりまえのようなことが、とても大切なんだとひしひしと感じた。支持体が透明だと、視線はそれをつきぬけてゆき、さまよう。自分がこれから食おうとしている対象に焦点が合わせづらい。いや、「対象」などというふわふわした言葉では足りない気もする。すきっ腹で対峙する目の前の食事というのは、アタス対食事、一対一ののっぴきならない関係であり、日頃からふまじめで適当なアタスでさえ「なにか切実でシリアスでありたい」と願う一瞬なのだ。透明皿では集中できないし、なにか切実な気持ちになれないのだ。 ――勢いで「支持体」という言葉を使ってしまったが、そういえばかつて透明な支持体に絵を描き「大ガラス」などと銘打ったマルセル・デュシャンという画家もいた(あの、美術館に便器を置いたおっさん)。こちとら頼んでもないのに毎晩大ガラスである。日々の食事、滋養摂取にモダニズムなんていらない―― それがどうだろう、ちかごろはすっかり慣れてしまい、あたりまえのように透明皿で違和感なく食っている自分がいる。なんか食えて腹いっぱいになればもうそれでいいや〜〜という。貧ずれば鈍ずる。これにつきるなあ。困窮してからというもの、アタスはなにかにつけてこればかり書いてる気がする。人様の日記を読むと、貧しくてもちゃんとしている人は大勢いる。ちゃんとこだわった、かっこいい器で食事をする。頭がさがる。





「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」
Marcel Duchamp "La Mariee Mise a Nu Par Ses Celibataires, Meme" (1915-1923)