みじろぎサタデーナイト

 土曜日よる。例の装置でオガーさんと会談。ネットでの交流は長いのだけれど、初めてお話させていただく。近況のことから音楽に関する話題など。個人的には、やはりオガーさんには音楽放送をしていただきたいという気持ちがいっそう深まった。どんなものをかけようが(たとえば)垂れ流しがいまひとつピンとこないのは、そこに選曲者の愛が見えないからだ。垂れ流して欲しいのは音楽でなくて選曲者の愛なのだと思う。聴きたいのは音楽そのものというより、様々な思いを抱いて選曲し、その日その時その場所でそれをかけてみようと思い到った選曲者の気概や、(日頃からの音楽に対する姿勢などに如実な)いわば選曲者の心が奏でる音色と調べなのではなかろうか。間を持たすように、ただお茶を濁すようにあいまいな気持ちで選曲される音楽の哀れについて考えさせられた。

 その後、毎度お世話さま万次郎屋さんのところに(こちらも初めて)凸させていただく(それでいろいろ慌てていたせいで、別件の会議チャットに気付かずにすみません。もし読んでたらすみません)。特になにも考えず野心もなく、単純に聴き役みたいな無欲な凸になってしまった。しょうがない。単純に氏の放送を好きで聴いてきた一リスナーが凸るのだから、そうなってしまうのは必然なのだろうか。ただ単純に聴き役に回るにも、もっとうまい方法がいろいろあるのだろうけど。。
 録音を聴きかえしていて気付いたのは、いろいろな自分の下手さと不手際に加えて、この凸は「普段、自分がレスしてるようなことを、そのまま喋ってるだけだな」という対話の構図だった。聴きたい話題のところはひっぱろうとするし、興味のないところは先に行かせようとする。。レスのように対話するというのはどうなんだろう。どうなのかよく分らないけれど、それなら(べつに凸じゃなくて)普通に今までどおりにレスするだけで十分じゃねえかという見方も確実にあるだろうし、やはりこれも重要な反省材料だなと考えさせられた。
 対話の中で期せずして「ねとらじを聴いて、べつに大笑いしたわけじゃなく、面白い言葉を聴いてしみじみ感心したいだけ」という自分の本音を語らせてくれた氏には感謝したい。聴いて大笑いしてなんとなくいい気分になってるかのような錯覚で、つかのま現実を忘れさせてくれるような放送も結構だが、つい油断して我に返ると、ねとらじで大笑いしてる自分が滑稽でうすら悲しい存在に思えてしまったりする、、そんな瞬間は皆さんにはないでしょうか? 自分にはたまにあります。酒を呑まないことも微妙に関係しているのかも知れませんが、自分の感覚が麻痺しているような時間がなんとなく恐ろしいのです。しみじみといい話やいい言葉で、いい気分になるだけで充分です。ジュマンジ・インタヴューや、すあまんじインタヴューとか、そういう意味不明な刹那的な言葉を喰らって、(うっすらと感覚が痺れるのを感じながら)ただしみじみしていたいだけというのが本音です。