おれのグラウンドゼロ

タイトルに日付けを書いてみて思い出した。
あの911から8年も経つんですね。
思えばあのころ、まだ自分はまっとうに暮らしておりました。
そして今、この瞬間が、おれのグラウンドゼロでございます。。

人の放送を聴きながら、
ねとらじについて、いま、自分が思うことを整理した(い)。

最終的に「質」と呼べるのは、
DJの個性、資質、能力ではなく、
配信者と聴取者の「関係性」、そのものかもしれない。

自身の放送録音を聴きかえしたりして
もっと、こうしたい、ああしたい、などと思う。
隅々まで、すべてを、意識化におきたいだとか、すべて、コントロールしたいだとか。
それが、また放送したいという気持ちにつながる。
ラジオ配信に含まれるすべての要素(音声)の、それぞれの意味。
それぞれの意味が織りなす、ラジオの音の意味の空間。
そのことを考えている時だけ、自分の考えるねとらじは、色彩を保つ。
届けたい誰かを、思い浮かべてしゃべるときだけ、迷いがなくなる。
しかし、「配信者と聴取者の(近々の具体的な)関係性」は無視される。

あくまでも「配信者と聴取者の関係性」は批評する側の問題。
配信者が、最初から「関係性」を考えることだけに捕らわれれば、放送は閉じてゆく。
しかし、おのれの放送について、批評的な視線も保たなければならない。
「バランスが大切」だとか言うのは簡単だけど、どうしたもんですかね。