無能ということについて

寝読書もろもろ。
相変わらず、本棚の肥やしの読み返しなんだけど。
出久根達郎の「人様の迷惑」「本のお口よごしですが」と読んで、
この前読み返していた竹中直人責任編集「無能の人のススメ」で思い出して
今度は、竹中直人「少々おむづかりのご様子」をぱらぱら読んでいた。
映画に関するコラム&雑文集。映画のことがまったく分らない自分だけど、なんとなく面白い。
ほぼショスタコービッチ一郎太(http://www.youtube.com/watch?v=3trw06C6LQQ)のままの文章。
(しかし、ショスタコービッチ一郎太の即興歌を聴いていると、サケ□ックのハマケンを思い出す)
竹中直人が描く、自身の青春時代の恋の話は、すごく甘酸っぱくて好きだ。
好きな娘のあとをつける。道のさきの光のなかに消えていく娘の姿と、壁に隠れて息を殺す竹中少年。
そのとき、掌に感じた壁のザラザラ。そこに意識がどんどん集中してゆき、しまいに頭の中が混乱する、だとか。
(前になんかで読んだエッセイもよかったんだけどな、、書名失念。。なんだっけ)
その他、原田芳雄ショーケン松田優作など、クセのある役者たちと絡む竹中直人のエピソードなどが心に残る。

無能の人のススメ」は、映画「無能の人」(つげ義春原作)にまつわる雑文集なんだけど、
いろんな書き手が「無能」「無能ということ」というテーマで寄稿している。
これは、二つ前に勤めていた会社の頃、、昼休みに古本屋でなんとなく手にとった。
思えばあのころから、自分は「無能」ということについて、ずっと考えている気がする。
ずっと考えているというのは大袈裟か。なんというか、ずっと心の片隅にひっかかっているような、そんな気がする。
そもそも「無能」ということについて考えはじめるなんてこと、それ自体が、無能化への第一歩なのだ。
ところで、私が第一に敬愛する話者である師匠(DJああああ氏)が、過去の放送で
「子供の頃に感じた、全能感」みたいな話をされていたことを、ふと思い出す。
「全能感」という言葉は、自分にはあまり馴染みがないんだけど、なんとなく感触だけはつかめる。
あのとき、師匠が話していた「子供の頃に感じた、全能感」というのは、なんだったのだろう。
結局「いま現在の、おのれの無能感」という吐露を、師匠流に言い換えたものだったのだろうか?
私が「無能」「不能」という言葉の先に捉えようとしている何かと、
師匠が「子供のころに感じた全能感」という言葉で伝えようとしていた何かは、
意外と近似なような気がしてならない。そんな根拠のない予感ばかりがつのる。