ブログという名の貧乏根性

メルフォからのお便り、いつもありがとうございます。
ありがたく拝見しております。長文のものなど
「もったいなあ、これは自分しか読まないのに、なんかもったいない。。」と、思ってしまう。
自分は一時まで、(趣味の)メールの返信なども、ブログに記すということをしていた。
自分の送信したメールなど、まず読み返すことはないと思うのだけど、
ブログに書いておけば、折々の自分の考えや、思いが、散逸せずに、まとまった形で読み返せるし、
他人への返信自体が、自分の日記のように思えたから。
いろいろいただく長文のメールなど、あるていど時間を割いて書いていただいていることを思うと、
それが自分の目に触れただけで、そのまま流れさって消えてしまうのが、なんだか忍びないなあと。
まあ、いつもの例の馬の骨名物、the貧乏根性ってやつかも知れんけども。
自分の場合、ブログに書くことで、単なる返信がそのまま流れ去らないことを意識すると、
作成する文章の方にも、ぐっと集中できるというか、身も入りますし。。
。。ああ、やっぱ貧乏根性のせいだな、これは。



>低温で保存されたご遺体を乗せたストレッチャーを、チルド室からとりだし見送る。
>昨日から同じ霊安室に横臥する新たな一人のご遺体をストレッチャーに乗せて、チルド室に入れる。
>この一連の動作をしている瞬間の感覚が、なにかに似てるんだけど思い出せない。

不謹慎ですが、噴いてしまいました。なんだか、ものすごい話ですね。
自分は一時「感覚の死と再生」などと軽々しくのたまっておりましたが、
匿名氏ほど身近に「死」を感じていたら、考え方が変わるような気がします。



>音楽と感性の骨接ぎ。
>死者と生者との骨接ぎ。
>DJとリスナーとのほねつむぎ。

うーん、と唸ってしまいました。なんだか、面白いなあと。
「骨接ぎ」と例えると「もともと繋がっていたけど折れてしまったものを、繋ぎなおす」
というイメージがあるんですが、
配信者と聴取者の間には、これは当てはまらないというのが僕の考えです。(というか、配信してる時の気持ち)
前にも書いたとおり、配信するつど「大海原にメッセージボトルを投げるような」気持ちです。
・「音楽と感性の骨接ぎ」という放送ができたら、すばらしいなあと思うのですが、
僕の放送は、曲について、ろくでもないことばっかしゃべるので、微妙ですねw
そもそも「音楽を前にした時の、人間の感性とはなんなのか?」ということについては、
あれこれ疑いたい。あれこれチョメチョメしたい気持ちでしゃべってます。
(大衆)音楽はうつろいやすいですが、人間(自分も含めた大衆)の感性はもっとうつろいやすいなと。
・「死者と生者との骨接ぎ」。こうなると、ちょっと話は大袈裟ですが、
「感覚の死と再生の骨接ぎ」とすると、自分の感覚でも受け入れられます。
音楽に対する感覚の、死と再生のサイクルを促す、とか、そういう意味合いで。
聴取者の、音楽の感じ方や、暮しの中での音楽との接し方、そういうものに少しでも影響出来たら、
嬉しいし、楽しいですね。そして恐縮ですね。

回線切れした前回放送、なんとか繋げないかと(再収録も念頭に)チョメチョメしてたんですが、、
無理でした。。orz まんまうpしますた。→http://d.hatena.ne.jp/mahone/20090826




よふけ。
TV映画を観て、サッカーTV観る。その間の30分ほど○○氏の放送拝聴。
スレに貼られた驢馬とレスターフォルサムのつべが意外で、へえと思う。
しかし、「洋楽」といって麒麟児のカバーを貼ったり、リンクをよく確認しないで貼ったり、
(そもそも、うまい人の話が止まるような感じに、つべとか貼ること自体、アレだと思うんだけど)
驢馬とレスターフォルサムみたいな種類の音源を貼るにしては、貼っている人間の
ものの扱いのテキトーさと、デリカシーのなさに、アレを感じた。文化の違いか?
いつもは普通にスルーしてるけど、ものがものだけに、気になったので記す。

その後、サッカー番組観てたら、そのまま寝ていた。
明け方。次放送用の仕込みとか少し。
きつねさんの放送を聴きながら大喜利をやると、意外と気分がいいのに気付いた。
なんとなく駄洒落っぽいのを思いつくんだけど、まあ、まて俺、、と。
それでいいのか?俺。と。軽い逡巡が心地よい。