チャーハン

 ねとらじって何?って、ことある度に考えてみるわけだけれど、
 結局「いまだに何だか分らないから、聴いてる」みたいなところに落ちついてしまう。

 最初にねとらじを聴きに来た時、暗闇に向かって呻いたり、ぼそぼそつぶやいたりしているような、ぶっ壊れたたれ流し放送がすごく強烈で、ひきつけられた。
 何万(何十万?)という人間が、日夜自分のなにかをすり減らして暗闇むかってタイピングしているような2chの延長にあるような、中心にあるのはただの虚像で、ただなにもない暗闇に向かってぼそぼそと語りかけるような放送。

 レスがついたとして、そのレスの集積のようなものが目の前にあったとしても、それをなんと呼べばいいのだろう。やはり虚像だ。虚像に向かって、何ごとかぶつぶつ喋る。空気の振動が電気信号に変換され、なにもない暗闇に向かってとけてゆく。言葉の熱だけはモニタ周辺にとどまり、その温度だけを頼りに、たえだえに言葉を継いでゆく、追い詰められたような人間の、次の一言を、決定的な一言を、かたずをのんで待つような放送。
 ニーなんたらというおっさん曰く「暗闇(深淵)を覗く者を、暗闇もまた等しく見返す」じゃないが、ねとらじを聴きに来た当初、強くひかれて興味を持ったのは、そういう暗闇としての「ねとらじ」だった。まあ、そういう放送を聴き続けても埒があかないのは分ってるから、他にもいろいろ聴いてみるわけなんだけれど。

 流暢で華麗なトークやら、おもしろい話で楽しませてくれる放送も、好きで聴くんだけれど、やはり僕が気になるのは、どこか、暗闇のほうが気になって覗き込んでしまうような話者なんだと思う。「暗闇の方を見てはいけない、ちゃんとしなくては、聴いてもらう人に楽しんでもらわなくては」と思いつつも、やはり虚像のレスには焦点を合わせられず、その向こうの暗闇を見ながら喋ってしまうような、なにかの瀬戸際をゆらゆら歩いていくような放送なんだと思う。

 満天の星とか、朝焼けの海とか、全山を染める紅葉とか、うつくしいものに目をひきつけられるのは当然だが、「壊れそうな人間」を目にしたとき、わたしの神経にはつよい電流が走った。「なんだ、これは」と注視してしまう。 ——『貧民の帝都 』塩見鮮一郎 (文春新書)

写真は隅田川沿いにて。(09.1.26のFNS日記より)