バラード


 さて、(ポコチン・バーン!がどうだの)言いたいことも言ったし更新はしばらくいいかなとぼんやり思っていたら、オガーさんがブログを始めたというのを今ごろ知り、さっそく拝見するといつになく(いつもどおりに?)生真面目な調子で音楽のことについて書かれていて、こ、これは!となんだか興奮して読んでしまった*1。例外的に好きなバラードとして小川美潮「窓」が貼られていて、僕は初めて聴いたのだけれど、これがまた至極まっとうというか直球なバラードで、またそこでおおおと興奮した。もはやなんで興奮しているのか自分でもアレなのだけれど、オガーさんが「好きなバラード」などと書いている時点で、何が来ても興奮してしまうのはしょうがない。以前、スカイプで少しだけお話しした時に、そのあたりのこと(小川直人にとっての「感傷」について)をちょっと探ってみたことがあるのだけれど、全然ダメだったので今ごろになって念願がかなった。

 「窓」だけれど、最初に映像付きで観てしまったのが完全に失敗した。映像に出ずっぱりの小川先生の女優っぷりに、すでに感動してしまうからだ。あの普通さというか素朴さというのは演技ではなくご本人のいわゆる「素」なのだろうか。しかし演技者の素が素なまま自然に映像に定着するようカメラの前で振る舞えるというのは、すでにものすごい女優な気もする。(ちなみに揃った前髪のアップのカットは山崎まさよしに、下からあおりで撮ってるカットは布施えりに見えたが、ちょっと訳あり風情ただよういい女いいお顔である。眼鏡が似合う。)そして、なんだかキラキラした当時の映像の質感もあいまって、夜景のビル街を歌いながら自転車で走るシーンなど、こちらも素のままの素朴な気持ちでジーンとしてしまった。こんな普通で素朴で田舎から出てきて都会の片隅でひっそりと暮らしていそうななよやかな一人の女性があんな野心的なポップスをやっていたのか!と(若干無関係なところで)感動してしまうのである。
 それなので曲単体がどうだったか、自分がどう感じたか?というのがどうもぼやけてしまってよく分からない。そのあと映像を観ずに曲だけを「場末の定食屋の有線からふと流れてきた知らない歌」というシチュエーションを想定し何度も何度も聴き返したが、どうしてもあの鮮やかすぎる映像がフラッシュバックで侵蝕してきて(油断して)つい感じ入ってしまうのである。たしかにオガーさんの文中にあった「人の家に勝手に入ってきて『一杯のかけそば』みたいな陳腐な感動話をしていくような歌」では全然なく、品が良くて高級で、歌詞も演奏も歌も気が利いている感じだった。などと今さら人ごとのように書いてみてもぜんぜんダメなのだ、なんの感想にもなってやしない。とにかく最初に映像付きで観たのは失敗した。

 それにしても「人の家に勝手に入ってきて『一杯のかけそば』みたいな陳腐な感動話をしていくような歌」というのはオガーさんらしい例えだなあと感じた。そういえば昔、オガーさんと沢田某さんの『会いたい』という歌がどうしてもアレであるという話をしたのを思いだす。街角で耳にしてもなんとなくそこを立ち去ればいいだけだが、場末の定食屋などでふと聴こえてくると急いで飯を食べ終わらない限りもうどこにも逃げ場はなく、「飯が不味くなる」というのは簡単すぎるにせよ、ただただ「今、俺は幾ばくかの代金と引き換えに沢田○○子の「会いたい」を聴かされながら栄養摂取している」という厳然たる事実に毎分毎秒不断に向き合わされ続ける思いがしてとにかく息苦しい。そしてこのわけの分からない存在感や迫力も音楽の力だなと感じると同時に、悪いのは沢田先生ではなく逃げ場のない環境でそういう選曲に踏み切る無配慮な潜在的DJたる一般市民なのである。
 僕はキリストの宣伝カーや右翼の街宣車が(昔ながらの方法で)街をゆくのを見物するのが好きなんだけど、ああいう車両が爆音で「会いたい」を鳴らしながら街を切り裂いたらその迫力はいかほどのものだろうと、『会いたい』の機能性ばかりに気をとられワケの分からない思いを馳せてしまうのである。話がだいぶそれた。

 小川のさんのバラードの話を読んでいて、なぜか僕の頭をよぎったのが遠藤京子の「雨の日のドライブ」という曲で、これはとくに大好きとか深い思い入れがあるというわけでもないのだけれど、自分にとっては(オガーさんの言う)「人の家に勝手に入ってきて『一杯のかけそば』みたいな陳腐な感動話をしていく」ような、一聴お手軽で大衆的で消費的な体裁をしているふうに感じるのに、なぜか気になって家で独り何度も何度も聴いていた思い出がある。

 曲も演奏も自分にちょうどいいとか、歌詞で描かれる甘く切ないようなランデブーが最後の一言(「今の彼女にウソをついてきたのね、わたしにそうしたように」)で男への鉈のような恨み節と豹変するのがちょっと爽快だとか、そのへんのことは置いておくとして、多分気になっているのはこの人の歌声のことで、歌い出しからヘタウマというか(むしろ余裕でウマウマなのか)得体の知れない説得力というか表現力を感じる。声質には人工甘味料のような悲しい甘さとふわふわした霧のような茫漠と土のにおいが同居して、少し泥酔時のやんご先生的でもある。問題はサビの盛り上がるところで、そこがとても上手で、元来僕はこういう感じに技量を見せつけるような歌い方は嫌味に感じてしまうのだけれど、これはなんか瀬戸際のところで嫌味にならずに、技術と計算をこれでもかと見せつけたあともなお何かが微妙に揺らいでいて、それが(歌に対してというか、自分の耳にたいして)納得がいかず、確認のために何度も何度も聴き返していた。サビ前から「来るぞ来るぞ、今回の印象はどうだろう?」と、自分がその歌声を受け入れるのか突っぱねるのか、少しだけドキドキしながら聴いていた。

 そんなことを考えながら、例えば多部未華子がこういう曲を歌っていたらとてもいいのになあなどと夢想した。ここの作文はいつもやたらと多部未華子多部未華子と書いているけど、僕は彼女が出演しているドラマも映画も(というか動いているところをまともに)見たことがないので、いったいどんな声をしてるんだろう?と映像をググってみたりした。多部未華子がちょっと素人っぽい頼りない感じでこういう曲を歌っていたら、きっと「いいね〜」と安心して聴けるし、落ち着いた人心地で「大好きだ」と言えると思うのです半端なニセ音楽ファンの僕みたいな人間は。



※以前、youtubeにアップしたものを公開にして貼ろうとしたんだけど「お住まいの地域では視聴はブロックされております」とかでダメでした。書く前に言ってくれよという。。けっきょく多部未華子の写真を貼るだけの作文になってしまった。