午後。出かけるしたくをしている最中に音楽家佐藤博の訃報を聞いた。突然だし、早すぎるだろう、、と呆然としてしまった。つい昨日だか一昨日、数ヶ月ぶりに自分で聴きたいように思った(ような気がしたような)音楽を独りで聴いていた。その中に佐藤博の作品もあって、久しぶりに聴いていたところだったから、唖然としたし予想だにできない知らせだった。いきなり頭を殴られたような気分になり、ぐったりした。
 今まで、様々な音楽家や有名人の訃報に触れた時の自分の心境をあれこれ思い出した。ほんとうに失礼な話だけれど「いったい、誰のときに近いだろう、似ていたりするだろう」などと無意識のまま比較してしまった。突然だし早すぎるし、なんといっても特別な感じで好きな音楽家だったから、いったい、どう受けとめたらいいのか気が動転した。

 ソロ作も大好きでよく聴いたけれど、最初に佐藤さんの名を意識したり、好きになったのは、70年代後期から80年代初期の有名無名さまざまな音楽家の作品での編曲の仕事だった。さまざまな編曲家が名を連ねているようなアルバムなどで、佐藤さんの編曲は自分にとっていつも際立っていた。
 佐藤さんの編曲は、いつも瑞々しくて繊細で硬軟が同居し奥行きがあって、なにより優しい感じがした。若い頃に実家の蔵で宅録していたという話を聞いてからは、なにか得体の知れない独特の集中力やらフェティシズムみたいなものが自分をこうまで魅きつけているんじゃなかろうか?などとすっかり思い込んでしまい、以降そういうものの匂いを嗅ぎ分けるような姿勢で聴くようにすらなってしまった。

 それから出かけ前に、むかし作った編集テープをひっぱりだしてきて、佐藤さんの「ピクニック」という曲を久しぶりに聴いた。同姓同名のシンガーソングライター佐藤博の「私の自転車」と並んで、大好きな自転車(佐藤)ソングである。明るいような曲調であまつさえ「ハッピーデイ、ハッピーデイ」などという女性コーラスまで入る曲なのだけれど、自分にはなんとなくせつなく聴こえる曲。よく晴れているんだけれどなにか悲しい空の感じに似ていて、聴き進んだ最後には「ハッピーデイ」のコーラスが(自分には)ヤケクソのように聴こえてくる。
 その編集テープの次にはwindroseという泡沫バンドの"blue skies"という、佐藤さんの「ピクニック」同様、チープな打ち込みが味なAORふうの曲が入っていて、「嗚呼、これも晴れてるけど悲しい空みたいな感じのするいい曲だったなあ。。」などと懐かしく聴き入り、すっかり余韻にひたってしまった。
 気がつくと外の明るさは陰りはじめていて慌てて出立。いつか見た町外れのキリスト看板はまだあるだろうかと、琥珀色に暮れなずむ場末のほうでうろうろした。「ピクニック」という曲を聞いてキリスト看板を眺めにいくのは変なのかも知れないけれど、自分はあいかわらずだ。ただなんとなく優しくてしみじみできる方へ引き寄せられていくだけ。佐藤さんの作品も編曲曲もそうやって自然に魅きよせられて聴いていた。
 (キリスト看板を見にいくまえに「これだ」と「ピクニック」を選んで聴く、そのくらい)自分は自分勝手で節操なく勘違いしているのだろうし、自分が聴こうとしていたものが本当に佐藤さんがリスナーに聴いてほしかったものなのか、分からないし自信はないけれど、とにかく私は佐藤さんの作品が大好きだった。どうかやすらかにお休みください。

 よふけ。佐藤さん編曲の作品の中から、もう一度、気分に合うものを独りでしみじみと聴いた。歌詞を写経。

いつの日かあなたに会い そしてまた別れて
何気ない時の流れのなか 輝いたひとつのこと
僕たちが残してきた ささやかな歴史も
人からみればどこにもある たわいない出来ごとなのか
閉ざされてしまった心 かわりない毎日だから
さよならも 意味のあることかもしれない