○んこ


(15歳の僕。以下15) この写真はなによ。モザイクかかってるし。
(おっさんの僕。以下お) うーん、迷ったけど伏せたよ、知らない人なんだけども。あと、作文はやたら疲れてぐったりしていた時に書いて、あとで読み返したら酷かったから収納することにしたよ。。
(15) まあ、よっぽどおかしな人じゃないとこんな辺鄙なところを見に来ないけどね。
(お) いや、微妙に次の作文と繋がってるところもあるので、どうしたもんかなと。。とりあえず投下してすっきりして、もう忘れることにする。


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回転花見

 寝られずに出たので終日ぼけぼけ。手紙を書いていたせいで出がけはすっきりしていたけど、動物を眺め森をぬけいつものベンチでパンを食べ終わると、またすぐ眠気で景色が遠くなる。動くものや人の声、ぜんぶ遠いので、視る聴く意識しないと内容が分からない。
 目覚めようとする淡い桜色の下で、女学生が回転するのを眺める。ロスコの前で黒袴がゆれるたび、ざわめく森のほうに動力を伝える。そこだけ浮き上がる。風が吹き枯れた芝生の上を棒アイスを食べる女たちが渡っていく。神殿の木が丸く見えるのは、白い敷石が陽を反射して下から照らすからだとやっと気づく。夕方に雪山用の手袋を買う用事につきあう。
 夜に食堂で夕飯。出ると雨で、自転車を漕ぐと雨が目に入る。いつもの雨ならレンズに当たるけど、きっと粒が大きくて重いので目と眼鏡の間にたえず飛び込んでくる。いままでない感じ。雨の路地裏で写真を撮っていると、どこかから素敵な音楽がもれ聴こえてくる。昔のエレクトロかそれをネタにしたヒプホプか知らないジャンルのそういう音楽か。しばらくうろうろするが、どこから聴こえてくるのかけっきょく分からなかった。林芙美子のこねこねアンコの木賃宿あたりで雨宿りして一服すると、雨はあがり快適な帰り道。

ふたつの結婚

『知らないはがき』
 だいぶ前に「結婚しましたという」葉書が届いたのだけれど苗字も名前も心当たりがない。「また●●とレコードの話をしましょう」という一文から思い当たる人がいたけれど、やはり名前が違うのでお手上げだった。連絡して確かめてみれば早いのだけれど、自分みたいな人がまたのこのこ現れて幸せなアレにアレをさすというのも迷惑なようで気がひけてしまい、けっきょくそのまま放置してしまった。そしてつい最近になって、結婚したのはやはりその人で、婿入りして苗字が変わったのだと聞いた(記憶違いでなければ、名前が一文字違うのは謎のままなのだけれど)。今ごろになって「おめでとうございます」も変だよなあと、困った。
 自分にとっては、ほとんどすれ違うように出会った人たち(ふたり)のことを思いだす。いつかの場所と時間、きれぎれの記憶の光景のあいだを埋める、その人の歌のことを思いだす。歌声のことを思いだす。時代がかった乳色のパイル地のポロシャツ、大きな帽子の陰で見えない表情とピアノの上を動く長い腕を思い出す。いつかの喫茶店の窓際の真昼の光と色校正、互いの声も聴きとれない高架線路下で握手した手の感触と温度を思いだす。握手の意味(なんで人は、自分は、握手するんだろう)を思い、しばらく呆然とする。
 真夜中に独り、今となっては何もかもきれいに見える思い出をかき集めて、はがきの住所にある街で暮らしているというふたりのことを想像すると、なんだかわけの分からない思いで胸がいっぱいになってしまった。いくら考えても、どんな言葉がぴったりくるのか分からない。つきなみな、誰かの言葉みたいなのが頭を埋め尽くす。おめでとう。おめでとう。どうかすえながく、おしあわせに。(2012.11)

 という没日記の相手に、今朝やっと手紙を出すことが出来た。寝付けないので未明に起きだして書く。くさいことを書くと「しばらく会わないうちに、またクルクルパーが進行してんな」と思われかねないから、いたって普通に書く。
 いつか誰かが「貧乏の気持ち」だか「貧すれば鈍する」ということについて「手紙を貰うも、返す気持ちの余裕がなくて、貯まった手紙にまた圧迫されて云々」ということを書いていたのをふと思い出して、何で読んだんだっけ、誰の言葉だっけと、ここしばらく頭をぐるぐるしていたけど、今朝、一つだけ軽くなった。

 ちゃんと手紙の返事を出そうと思ったのは、つい最近、大将(というあだ名の、別のお知り合い)の結婚を知ったことも関係あるのかも知れない。ネットラジオの片隅で出会った頃のことを思いだす。夜中に放送して、よくエンディングにかけていた曲がユーチューブにあった。曲を書く人、ピアノを弾く人、曲をかける人、それを聴く人。3年だか4年の時を越えて、一つの曲が人の交差点になった。。と、またクルクルパーが夢想する。おめでとう。おめでとう。(3/20)






いまも思い出すって言っていただろう 絵具のついたシャツのままで朝まで騒いだよね
描けなかった未来の今日はふたり なつかしい時計ははずそう
とざした心、自分らしさに立てこもってた ナイーヴという砦すてさるんだ
きみは勘がするどいからこわい 朝まできみといたいのに

15歳の君と15歳の頃の僕と、おっさんの僕


 ここの作文が若い人の目に触れることもあり得るということをぜんぜん考えてなかった。まず自分が(いちおう年齢的には)大人なのだという自覚がぜんぜんないし、子供のままで感覚が止まっているただのクルクルパーだから考えてもみなかった。
 ものすごくあたりまえだけど、今の若い人というのは自分の若い頃とはぜんぜん違うんだろう。それを想像してみようとするけどぜんぜんおいつかない。僕が子供の時はインターネット、スマホなんてのはもちろん、ケータイすらなかった。そういうのが普通にあって、あたりまえに使っている今の子供からしたら、僕くらいの世代の子供時代の景色ってのはどう感じるんだろう。僕が上の世代の子供時代を想像するような感じ。空地に来る紙芝居屋を水飴をねりねりしつつ鼻水を垂らして眺めてるような、のどかな時代だな〜という感じなんだろか。それとも、バブル期と重なってるからまた別の独特の印象もあるんだろうか。

 昨日にひき続き、また貧しい食事の話なんだけど。
 子供のころ、マンガのこち亀両さんの子供時代、みたいな話だったろうか)で「コロッケが浸るくらいソースをどばどばかけて、さらに上から箸で平たくなるよう押し潰してコロッケの表面積を何倍にも増やして、それで米をたくさん食う」みたいな話*1を読んで、それがやたらウマそうなのと工夫してる感じに痺れて、さっそく家の夕飯で真似したら家族にとても嫌な顔をされた。味もべつにピンと来なかったけど、まあそれで満足だった。
 そうする必要がなければ別にやらなくていいことで、おっさんになってからは(そうする必要があるので)3個入り百円の、値段以外褒める部分が見つからないようなコロッケを買ってきては、ソースをどばどばかけて平たく潰して米を食っていると「嗚呼、この感じだったんだな、あの時の両さん、、」と、しみじみとおいしい。

 インスタントラーメンやらレトルトのカレーやらソースどばどばコロッケみたいな食事をしている最中に、翻訳ブログの「外人の日本食に関する反応」みたいなのを眺めると、なぜだかおいしく感じる。日本人の食文化や感覚とはまったく断絶した想定外の方向から、的外れだったり時に鋭い言葉が飛んでくるので、わけの分からない想像力が刺激され、目の前のカップラーメンやらソースまみれのコロッケが急に尊くありがたいものに思えてくる。
 こういう方法はどうなんだろうか。工夫といえば工夫だけど、両さんのソースどばどば扁平コロッケみたいな、いかにも直感に訴えるタイプじゃないからダメだろうか。でも今の若い人は子供ん時からネットだってケータイだってあるんだから、想像力のスイッチをいれるソース(ソースじゃないほうの)は無限にあるはずで、ソース(ソースの方の)どばどばコロッケより、そういうやり方の方がいいのかな、、どうなのかなあ、、と、頼まれもしないことをだらだら考えていた。(3/19)


*1:画像は見つからなかったけど、こんなやり取りがひっかかった。http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1355366463 「コロッケを平らに潰して広げてトンカツソースかけて食べる家族を見たことあるかい?」「私はありません。」。。。『立板に水』というか『立板にウスターソース』というか。。

塩ラーメン


 この前の塩ラーメンにひきつづき、今度はタンメンをジャケ買いしてしまった。思い返せば僕が馴染みのないカップラーメンに手を出すときはいつもジャケ買いである。「このメーカーはどうの」やら「このスーパーのなんちゃらシリーズは日清のプライベートブランドだから云々」といちいち考えるのは「ブルーノートのウン千番台がどうの」などというのに似ていて、いわゆる「レーベル買い」になるんだろう。。などと適当に書き始めると、いったい何を書いているんだ自分は、日本語ってこういう感じで良かったんだっけ?と覿面におぼつかなくなってくる。
 レコードに関して言うと、僕はずっとジャケ買いには懐疑的だった。ジャケ買いと一口に言っても幅があって、己の美意識に厳密に即して選ぶ狭義のジャケ買いもあれば「ぜんぜん自分の美意識とは相容れないけど、こういうアレな雰囲気のジャケのが意外とこんな内容だったりして云々」みたいな経験則に依る広義のジャケ買いもある。後者のジャケ買いならうなづける部分もあるが、自分の美意識を直撃するようなジャケのレコードを買ってまず満足した試しがない。

 それでこの「ニュータッチ・野菜タンメン」なんだけど「このジャケに、グッとくるレーベル、、今日は一発これに賭けてみるか。。」と食べてみたんだけど、どうもいまひとつピンと来なかった。ぜんぜん不味くはないんだけど、個人的にはなにか心に引っかかるようなフックに欠ける気がした。カップラーメンの塩味みたいなやつで、グッとくるパンチや、心に残るニュアンスや余韻を目論むのは難しいことなのかも知れないけれど、この前の「サッポロ一番・塩ラーメン」は全体がバランス良くまとまり、一口目から食べ終わるまで飽きさせない均整に優れた印象があった気がする。*1 ちなみに近頃食べておいしいかったカップラーメンは、タバコの販促キャンペーンでタダで付いてきた試食サイズの「スーパーカップ・もやし味噌ラーメン」だ。

 塩味のカップラーメンというのは「いま僕は、塩ラーメンを食べている」と絶えず自覚し続けないと、自分が何を食べているのかすぐ忘れてしまう。それは手がかりの少ない絶壁をロッククライミングするようなもので、気を緩めればあっというまに「カップラーメン=本物のラーメンの廉価な代替物、従属物」という奈落の底に墜落し、折れた想像の翼をいくら振ろうが二度と這い上がることは出来ない。想像の浮力、それも一本調子の単純な想像力ではダメで、より自由で柔軟な発想と新鮮な気分で向き合うべきだ。*2
 澄んだスープと白い湯気の先に冬の海を想像してみる。ベンワットの"northmarine drive"*3もいいが、なんとなく野菜が生煮えな感じもする。そこでラビシフレの"cannock chase"を再生してみる。あの中ジャケの雲間から光射す芒洋としたモノクロームの海と、原始の有機物のスープ。さざなみのようなリフの寄せ返す小石の汀、砕ける散る波頭が空気にとけこむきわの冷気と潮風。
 いま僕は、潮ラーメンを食べている。









*1:なんとなく体調やその時の気分な気もするんだけど。。

*2:醤油や味噌のカップラーメンは、いつかどこかで食べておいしいなと思ったラーメンを想像し、その水準まで足りない何かを想像力で補うことで、僕は比較的単純においしく感じる。ここで必要なのは具体的かつ方向性のある想像力で、「なんちゃらの水と小麦の謹製手打ち麺がどうの」とか「なんちゃらの味噌づくり一筋ウン十年・小林源之助(89歳)」みたいなことを思い、ただ目の前のカップラーメンに向かえば事足りる。ところが塩ラーメンになってくるとなぜか「塩づくり名人・小林源之助(89歳)」が頭の中に現れることはなく、「野菜のうまみが凝縮されたスープがどうの」と謳うパッケージの文言を眺めたところで雲をつかむような話なのである。

*3:http://youtu.be/XYai6vG2Qhk

花のはなし


 日曜日。寝そこなって朦朧とした頭でなんとか庭園を散歩していた。遠くに一本だけ白い花が咲く木があって(目が悪いので実際あんまりよく見えてないんだけども)ぼんやりしたまま「あ、梅だ」とつぶやくと「梅なんかとっくに散ってるし、あんなにデカくねえよ。木蓮だろうが」と一緒に歩いていた人に一喝された。竹林の前を通ると「竹の花は百年だかに一度しか咲かない」という話をされて「ああ、そういえば竹の花って見たことねえな。花咲くんだ、竹、、」とか「しょっちゅう咲いたらそこいらじゅう竹だらけになってしまうのかね」などと話しながら、ずっとぼんやりしていた。
 僕の適当な視力や知識がつくる景色の中で(僕が梅と間違えた)木蓮の花の一つ一つが、傾いた木漏れ陽の光と混じり合ったり、ぜんぜん違えよと主張したりしながら、適当に白く、適当に美しい感じで咲いていた。

 いつも読んでいる日記(自分と同じただの素人がぼんやり書いてるようなやつ)の人が急に花の話を始めたりすると、弱っているのかな?と心配したりする。そうかと思えばしょっちゅう花の話をしている人もいて、それぞれ色んなことを書くけれど、そういう人たちは優しかったり感受性や想像力が豊かなんだろうなとつくづく思う。僕はといえば、花や植物のことを全然知らないからか、そうとうガサツだからか、他人の花の話を読むとあれこれ余計なことを考えてしまうから心のどこかで躊躇があるのか、あまり花のことを書いた覚えがない。
 他人の花の話を読んだり写真をみる時は「植物は性器を空に突き上げていつも逆立ちして云々」といういつかの誰かの言葉を思い出す。
 朝日がきれいとか、流れる水がきれいとか、植物の緑がきれいとか、星がきれいだとか、人間が人間になる前からの生き物の記憶のようなものが「嗚呼、無闇矢鱈ときれいだなあ。『美しい』ってなんだか分からねえし、どうも言うのも書くのも気恥ずかしいけどそう言うしかないし、思っちゃうんだから仕方ねえよなあ」という感情を抱かせるのだとしたら、僕自身が花(性器)のたたずまいに心を動かされて、なんだかわけの分からない気分になったりするのはどういうことなんだろう。だから他人がどんな花をみて、どう感じて、どう書くのかもなんとなく気になる。


 奇妙な色や形をした花や、ぜんぜん普通のありふれた花、いろいろある。もりもりと飾りつけられた切花は非現実的なシチュエーションのポルノ?、雑草の一輪は素人モノだろうか、つぼみとロリコン趣味、枯れた花と熟女趣味、じゃあ泥の上に落ちた一枚の花びらは?云々。。
 だいぶあたたかいので未明に公園でたばこと缶コーヒーで、花と遠いような近いような欲望周辺について呆然と連想していた。もう桜が咲き始めていて、それを脳死状態(たぶん、そうしたら気が済むくらいの感じ)で撮ったりしたあと食堂に入る。カウンターまで流しの水が飛んできて「うああスミマセン」と慌てた若い店員が唐揚げをサービスしてくれた。こんな量と安さが売りのチェーン店で、こちらも(たぶん)威圧感を与えるような見た目でもないただのしょぼくれた客なのに、ずいぶん親切な店員だなあ、タダの唐揚げうめえなあと感心していると花のことはすっかり頭から消えて、やはり花より唐揚げのクルクルパーだと思った。

いつも自分の外側にあって指をくわえて眺めるものがロックだった



 見慣れぬナニを辿ってみるとネトラジの頃のお知り合いのつぶやき。数年ぶりで懐かしいなあ〜と、また長々と私信的な作文をして一旦は投稿したんだけど、うーん、また人様の行いの感想文かよ、、と反省してとりやめるなど。その方の日記に年越しの真夜中に栃木の国道沿いのさびしい道を家まで13キロ歩く実況という音源があって、二人の中年男性が「すげえ寒い」とか「脚が痛い」とか「腰が痛い」とか、「マクドナルドの看板だべよ」とか、「元旦の月はなかなか高いところに在りまして」とか、突然水の音がしたかと思うと「ぅぁあなんだこれ、すげえあったけえ!」とか、路傍のお地蔵さんに「hey happynewyear!! 死んでるかい?」とか、いろんな事をぶつぶつ言いながら延々と歩いている。その感じが、気分が沈んで椅子の上でぐったりしていた自分にちょうど良くて、ずっと呆然としながら聴いていた。
 歩く二人はだんだん無口になっていって、しだいに足音と息づかいと時おり通り過ぎる車が風をきる音ばかりになって、最後に疲れきって家に着いたころ僕の部屋も夜が明けた。*1









 「食べ物を不味そうな色にするな」と人に言われて、確かにそうだ仰るとおりだし言われなくても分かっているけど、クセというか無意識というか気の済むようにすると不味そうになってしまう。「広場の先には森が広がっていて、すぐ目の前ではカツみたいなのが串に刺さってるんだよ、その物質感がどうたらこうたら、、」などと咄嗟に口がすべるが、物質感どうこうと言ったところで自分でも何がしたいのかさっぱり分からん。ああ、自分の日記を開いた時にうまそうな色をしていると腹が減って自爆するからか、今度その話になったらそう言うことにしよう。それともオガーさんに習って「こっちのほうがロックだから」とでも言ったらどうだろうか。自分の思ったとおり気が済むようにやるのはロックなのかも知れないけど、多分ごちゃごちゃアレするのはロックじゃないんだろうな。難しいな。ロックなんか知らねえよ。


*1:めも)フライミーツーザームーンの没版バックトラック / 君のボディはノーボディ

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